第72話 錨を下ろす場所と、新しい海図(3)
夜の帳が完全に下りた眼下の港町に、ポツリ、ポツリとオレンジ色の街灯が点灯し始めた。
それはまるで、暗い冬の海に浮かび上がる新しい星座のようであり、羅針盤を失った私たちがこれから進むべき道を記した、光の海図のようにも見えた。
私は、コートのポケットの中でずっと重い鉛のように感じていたスマートフォンを、ゆっくりと取り出した。
画面には、先ほどまでの私を縛り付け、エンストさせていた元上司からのメッセージがそのまま残されている。
『どうしても美桜の力が必要なんだ』
数十分前までは、この言葉の呪縛に囚われて身動きが取れなくなっていた。必要とされている場所に帰らなければ、自分の価値がなくなってしまうような気がして怯えていた。
けれど今の私には、隣で私を真っ直ぐに見つめ、温かい手を差し伸べてくれる人がいる。もう、迷いはなかった。
私は少しだけかじかむ指先を動かし、返信のテキストボックスに文字を打ち込んだ。
『せっかくのお誘いですが、申し訳ありません。私、今いるこの町に、しっかりと錨を下ろして生きていくことに決めました。なので、そちらへは戻れません』
少しだけ迷ってから、最後に『今までお世話になりました。新しいプロジェクトの成功を祈っています』と付け加え、迷うことなく送信ボタンを押した。
送信完了の小さなアニメーションとともに、メッセージが都会の夜空へと飛んでいく。それと同時に、半年間ずっと私の肩に重くのしかかっていた見えない枷が、カチャリと音を立てて外れ、冷たい海風の中に溶けて完全に消え去っていくのを感じた。
「……断った?」
隣から画面を覗き込むようにして、海里くんが静かに尋ねる。
「うん。きっぱり断った」
私がスマートフォンの画面を暗くしてポケットにしまうと、彼は心底ホッとしたように息を吐き出し、満足そうに目を細めた。そして、私の右手を再び自分の方へと引き寄せた。
さっきまでの、不器用に腕を掴むような切羽詰まった握り方じゃない。私の冷えた指の間に、彼のごつごつとした少し荒れた指をゆっくりと絡ませる、はっきりとした「恋人」としての繋ぎ方。
手袋なんてしていなくても、お互いの体温が直接伝わってくるその感触が、たまらなく嬉しくて、少しだけくすぐったかった。
「よし。じゃあ、帰るか。さすがにこれ以上外にいたら、直したばかりのエンジンが本気で凍りつく」
「ふふっ、そうだね。海里くんがくれた特効薬の温かさも、もう限界かも」
私たちが笑い合いながら歩き出すと、ヒューッと一段と冷たい冬の夜風が展望公園を吹き抜けた。
けれど、私の心はこれまでにないほど澄み切って、ポカポカと温かかった。
眼下に広がる港町は、決して華やかな都会ではない。ネオンサインも、そびえ立つ高層ビルもない。けれどそこには、海里くんが毎日汗を流して働く造船所があり、私が本を整理する小さな図書館があり、それぞれの生活を大切に紡いでいる人々の、温かくて確かな灯りがある。
「ねえ、海里くん」
坂道を下りながら、私は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「夕飯、まだでしょ? 錨を下ろさせてくれたお礼に、何か温かいもの作ろうか。……料理、あまり得意じゃないって言ったけど、これから少しずつ練習するから」
私の言葉に、海里くんは照れたようにそっぽを向きながら、けれど繋いだ手だけはギュッと力強く握り返してくれた。
「……じゃあ、シチューがいい。海鮮がゴロゴロ入った、アツアツのやつ」
「えー、いきなりハードル高いなぁ。とりあえず、スーパーでルーを買うところから始めてもいい?」
「ははっ、いいよ。一緒に買い出しから行くか」
羅針盤はまだ壊れたままだし、未来の海図がどうなっているかなんて、まだ誰にもわからない。
でも、それでいい。目標なんてなくても、星の光と遠くの街灯を頼りに、彼と一緒にゆっくり波に揺られていけばいいのだ。
温かいオレンジ色の灯りが待つ町へ向かって。
私たちはしっかりと手を繋ぎ、並んで新しい一歩を踏み出した。




