第71話 錨を下ろす場所と、新しい海図(2)
滲んでいた視界が限界を迎え、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
今度はもう、マフラーに顔を埋めて隠そうとはしなかった。海里くんに両手を包み込まれたまま、私は子供のようにしゃくりあげて泣いた。
この半年間、自分がどれほど無理をして強がっていたのか。
「都会からドロップアウトした負け犬」というレッテルを自分自身に貼り付け、焦りと自己嫌悪で心をすり減らしながら、それでも平気なふりをして生きてきた。
けれど本当は、この町での穏やかな生活に救われていたのだ。波の音を聞きながら図書館で古い本を整理し、夕暮れになればこの展望公園の高台に登る。そして、油の匂いをさせた少しぶっきらぼうな彼がやってきて、隣で他愛のない話をしてくれる。
その時間が、私が生きていく上でどれほど確かな「救い」になっていたか。
私は彼に会いたくて、彼がくれる温かい言葉と缶のホットココアが欲しくて、毎日のようにこのベンチに通っていたのだ。
「……泣きすぎだって。ほら」
海里くんが苦笑しながら、包み込んでいた私の手を片方だけ離し、自分の作業着のポケットから少しヨレヨレになった清潔なハンカチを取り出した。そして、私の頬を伝う涙を、壊れ物を扱うようにそっと拭ってくれる。
不器用で、ガサツに見えるのに、こういう時の彼の指先は信じられないほど優しい。
「……だって、海里くんが、変なこと言うから……」
「俺は至って真面目に本音を言っただけっすよ。変なことってなんだよ」
文句を言いながらも、彼が私の涙を拭う手は止まらない。
私は大きく鼻をすすり、深呼吸をして、冷たい冬の空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。不思議と、さっきまで胸に閊えていた息苦しさはもうどこにもなかった。
私はもう、あの息苦しいコンクリートの海に戻る必要はない。
誰かに「役に立つから」という条件付きで必要とされる歯車にならなくてもいい。ただ「ここにいていい」と、空っぽの私を丸ごと受け入れてくれる彼のそばで、波の音を聞きながらゆっくりと呼吸をしていればいいのだ。
「……私ね」
私は涙声のまま、海里くんの大きな手を、自分の両手でギュッと強く握り返した。
「私、すごく重い錨だよ?」
見上げた彼の瞳の奥に、ほんの少しだけ驚きの色が浮かんだのがわかった。
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、少しだけ意地を張るようにして言葉を続けた。
「錆びだらけで、面倒くさくて、ネガティブで……一度下ろしたら、そう簡単には引き上げられないかもしれないよ? それでも、本当にいいの?」
それは私なりの精一杯の、そして絶対に後悔させないという強い意志を込めた「YES」のサインだった。
私の言葉の意味を理解した瞬間、海里くんは一瞬だけきょとんとした顔をして、それから今日一番の、最高に無邪気で頼もしい笑顔を見せた。
「ははっ、上等っすよ」
彼は握りしめていた私の手を引き寄せると、もう片方の大きな手を私の頭の上にポンと乗せ、少し乱暴に、けれどたまらなく愛おしそうに髪を撫でた。
「うちの造船所の巻き上げ機と、俺の腕力を舐めんな。どんなに重くて錆びついた錨だろうが、絶対に手放さないし、俺がピカピカに直してやるから」
頼もしい職人の宣言に、私は泣きながら、とうとう声に出して吹き出してしまった。
「ふふっ……あははっ。何それ、船の修理と同じ扱いじゃない」
「同じっすよ。俺は船も、あんたの壊れた羅針盤も、両方直せる男だから」
彼もつられて笑い出し、展望公園に二人の笑い声が響き渡った。
さっきまでの張り詰めたような重い空気は完全に消え去り、そこにはただ、冬の夜の冷たさを跳ね除けるような、穏やかで温かい二人の体温だけが存在していた。
気がつけば、西の空を彩っていた強烈なオレンジ色の夕日は完全に海の向こうへと姿を消し、世界は深い群青色の夜へと沈み込んでいた。
冬の夜風が強く吹き付け、私のコートの裾を揺らす。けれど、彼と繋いだ手から伝わってくる熱と、私の心の中に新しく灯った小さな光のおかげで、寒さはちっとも感じなかった。
(私は今、この場所に錨を下ろしたんだ)
激しい嵐から逃げ延びて、ようやく見つけた、私だけの安全な港。
もう羅針盤がなくても怖くない。行き先がわからなくても、隣でこの温かい手を握ってくれる彼がいれば、私はきっとどこへだって進んでいける。




