第70話 錨を下ろす場所と、新しい海図(1)
「あんたが今、どこに進めばいいかわからないなら。……俺が、あんたを引き留める」
海里くんのその言葉は、冬の冷たい空気に吸い込まれることなく、私の耳の奥で何度も熱く反響していた。
彼が私の右腕を掴む手には、強い力が込められている。けれど、それは決して私を乱暴に縛り付けるようなものではなく、崖から落ちそうになっている人間を必死に引き上げようとするような、切実で不器用な優しさに満ちていた。
「海里、くん……」
名前を呼ぶ私の声は、情けないほど震えていた。
彼はゆっくりと私の腕から手を離すと、今度は私の冷え切った右手を、油で少し荒れた彼自身の大きな両手でそっと包み込んだ。
「先のことがわからないなら、とりあえず俺のところに錨を下ろせばいい」
真っ直ぐに見下ろしてくる彼の瞳の中には、もういつもの飄々とした青年の影はなかった。一人の大人の男としての、静かで揺るぎない覚悟がそこにあった。
「東京の会社みたいに、あんたに立派な肩書きとか、やりがいのあるデカい仕事なんて、用意してやれないっすけど。でも……嵐をやり過ごして、ゆっくりエンジンを休ませるための港くらいにはなれる。だから、行かないでほしい」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で、東京の上司から送られてきたあのメッセージの文面がフラッシュバックした。
『どうしても美桜の力が必要なんだ』
あの言葉は、私という人間そのものを求めているわけではなかった。彼らが必要としていたのは、徹夜も辞さずにデザインを仕上げる『労働力』であり、プロジェクトを回すための『歯車』だったのだ。
役に立つから、必要とされる。能力があるから、居場所が与えられる。
その条件付きの承認こそが、都会という海を生き抜くためのルールであり、私はそのプレッシャーに耐えきれずに壊れてしまったのだ。
でも、目の前にいる海里くんは違う。
彼は、私が何かの役に立つから引き留めているわけじゃない。立派なキャリアも、明確な目標も、羅針盤すらも失って、ただ漂流しているだけの空っぽの私に、「ここにいてほしい」と言ってくれている。
『俺のところに錨を下ろせばいい』
それは、私がこの半年間、心の奥底でずっと誰かに言ってほしかった言葉だったのかもしれない。
社会の役に立たなくても、止まったままでも、あなたはここにいていいのだと。自分の存在を丸ごと肯定してくれる、絶対に安全な停泊地。
私はずっと、そういう場所を探して漂流していたのだ。
「……俺のわがままっすよ」
私が何も言えずに立ち尽くしていると、海里くんは少しだけ照れくさそうに視線を泳がせ、私の手を包み込む力を少しだけ強めた。
「あんたが都会に帰れば、もっと華やかな人生が待ってるのかもしれない。俺みたいな田舎の修理工が、あんたの人生の邪魔をしてるだけなのかもしれない。……でも、あんたが泣きそうな顔をしてあのコンクリートの海に戻っていくのを、黙って見送るなんて絶対にできない」
彼の言葉一つ一つが、冷え切っていた私の心の最も深い場所まで届き、じんわりと温かい波紋を広げていく。
包み込まれた手から伝わってくる、彼のごつごつとした指の感触。
それは、彼が毎日造船所で、傷ついた船たちに真摯に向き合ってきた証だ。そして今、彼はその同じ手で、羅針盤を失って沈みかけていた私という難船を、しっかりと岸に繋ぎ止めようとしてくれている。
「……海里くん」
「はい」
「私、なんの役にも立たないよ? 料理もあんまり得意じゃないし、朝も弱いし……。都会から逃げ出してきた、ただの臆病者だよ」
私は、自分のダメなところをわざと並べ立てた。
彼が思い描いているような素敵な人間じゃない。ただのポンコツなのだと、彼が手を離すなら今のうちだと、最後の予防線を張るように。
けれど、海里くんは呆れたように小さく息を吐き、フッと柔らかく笑った。
「知ってるっすよ。この半年間、ここでずっとあんたのこと見てたんだから」
「……え?」
「休みの日は昼過ぎまで寝てるのも、図書館の仕事中にこっそり居眠りしそうになってるのも、全部知ってる。その上で、俺はあんたに錨を下ろしてほしいって言ってるんだよ」
彼のその言葉に、私は思わず息を呑んだ。
完璧な自分を取り繕う必要なんて、最初からどこにもなかったのだ。彼は、エンストしてボロボロになっている私を、すでにまるごと受け入れてくれていたのだから。
再び、視界がじわりと滲み始めた。
さっきまで流していた自己嫌悪の涙とは違う。胸の奥がキュッと締め付けられるような、どうしようもなく温かくて、甘い涙だった。




