第69話 錆びた羅針盤と、沈みゆく夕陽(3)
「あ、でも……」
立ち上がろうとしていた私の右腕を、海里の大きな手がしっかりと掴んでいた。
厚手のウールコートの上からでもはっきりとわかる、力強くて、ひどく熱を持った手だった。
「え……海里、くん?」
中腰になったままの不自然な姿勢で振り返ると、彼はベンチに座ったまま、私を真っ直ぐに見上げていた。
その瞳には、先ほどまでの「過去を懐かしむような穏やかさ」は微塵も残っていなかった。代わりにそこにあったのは、絶対に手放さないという強い意志と、隠しきれない切実な熱情だ。
ちょうどその時、西の空を覆っていた分厚い雲の下から、完全に水平線へと触れようとしている夕陽が顔を出した。
空と海が、痛いほど鮮やかなオレンジ色と深い群青色のグラデーションに染め上げられる。それは、冬の港町が一日の中でほんの数分だけ見せる、息を呑むほど美しい魔法のような時間だった。
強烈な夕陽の逆光を受け、海里の顔の半分は深い影に覆われていた。しかし、私を見つめるその真っ直ぐな瞳の中だけは、オレンジ色の光が小さな炎のように力強く揺らめいているのが見えた。
「波に任せて漂うのは、いいっすよ。……でも」
彼は私の腕を掴んだまま、静かに、けれど確かな重さを持った声で言葉を紡いだ。
「あの、冷たくて息苦しいコンクリートの海には……もう、戻らないでほしい」
「……っ」
ドクン、と。
自分の胸の奥で、心臓が大きく跳ねる音がした。
「さっき、あんたが『ここからいなくなるかもしれない』って言った時……俺、自分で思ってた以上に動揺したんすよ。心臓が嫌な音立てて、胃の奥がギュッとなって、目の前が真っ暗になるくらい焦った」
「海里くん……」
「あんたがこの町に来てからの半年。俺は、仕事が終わってこの高台に登るのが、いつの間にか毎日の楽しみになってた。ここで潮風に吹かれてるあんたを見つけて、隣に座って、何気ない話をして……あんたが少しずつ笑えるようになっていくのを見るのが、俺の日常の中で一番大事な時間になってたんだ」
彼の告白は、あまりにも真っ直ぐで、飾り気がなくて。
だからこそ、波に揺られて不安定だった私の心の一番深い場所に、ズシリと重く響いた。
「俺は、あんたにこれ以上傷ついてほしくない。羅針盤が壊れたまま、またあの都会の荒波に飲まれて、今度こそ本当に海の底に沈んでしまうなんて……絶対に嫌だ」
海里はゆっくりと立ち上がり、私と真っ直ぐに視線を合わせた。
彼と向き合うと、背が高くて肩幅の広い彼に、冬の冷たい海風からすっぽりと守られているような感覚に陥った。
彼の指先から伝わってくる熱が、コート越しに私の体温を急激に上昇させていく。
「海里くん、それって……」
「あんたが今、どこに進めばいいかわからないなら。……俺が、あんたを引き留める」
完全に日が沈みかけ、周囲の空気が急速に夜の冷たさを帯びていく中。
海里の言葉だけが、オレンジ色の夕陽の最後の熱を閉じ込めたように、私の耳に熱く残っていた。
それは、ただの慰めでも、同情でもない。
半年間、付かず離れずの距離で私を見守ってくれていた彼が、明確な意思を持って「境界線」を踏み越えてきた瞬間だった。
私を都会に漂流させまいとする、彼の不器用で、けれど揺るぎない「オレンジ色の決意」。
風の音が止んだように感じた。
波止場の軋む音も、もう聞こえない。
私の世界には今、目の前に立つ彼の真剣な瞳と、腕を掴む手のひらの熱だけが存在していた。




