第68話 錆びた羅針盤と、沈みゆく夕陽(2)
マフラーに顔を埋めて、どれくらい声を殺して泣いていただろうか。
ひとしきり涙を流し終えると、私の中でガチガチに固まっていた得体の知れない焦燥感や、自分を責め立てるようなトゲトゲした感情は、嘘のようにスゥッと引いていた。
代わりに残ったのは、思い切り泣いた後の心地よい疲労感と、冷たい冬の空気をスッキリと吸い込めるようになった、少しだけ軽い肺の感覚だった。
「……落ち着いた?」
隣から聞こえた静かな声に、私は小さく頷きながら顔を上げた。
「うん。……ごめんね、いい大人が突然泣き出したりして。引いたよね」
「別に。引くどころか、少し安心したっすよ。あんた、いつも無理して笑ってて、今にもポキッと折れそうだったから」
海里はそう言うと、手の中ですっかりぬるくなってしまったであろうココアを一口飲み、遠くの水平線へと目を細めた。
冬の日は短い。先ほどまで強烈なオレンジ色を放っていた太陽は、すでに半分以上その身を海に沈め、空は深い群青色と燃えるような赤のグラデーションに支配されていた。
「それに……俺も昔、同じような経験があるから。あんたの言ってること、痛いほどわかるんすよ」
「海里くんが?」
驚いて彼の方を見ると、海里は自嘲するようにフッと短く笑った。
「俺もね、昔はこの何もない狭い港町が嫌で嫌でたまらなくて。高校卒業してすぐ、親父と大喧嘩して都会に出たんすよ。俺ならもっとデカいことができる、こんな田舎で終わる人間じゃないって、根拠のない自信だけ持ってね」
潮風に吹かれる彼の横顔は、いつも見ている飄々とした青年ではなく、どこか遠い過去の傷跡をなぞるような、静かな表情をしていた。
「でも、ダメだった。都会のスピード感とか、人がひしめき合ってるプレッシャーとか、そういうのに全然ついていけなくて。結局、何者にもなれないまま、三年で心を病んで逃げ帰ってきた。……あんたと同じっすよ。エンジン焼き切らして、羅針盤ごとぶっ壊して、ボロボロになってこの港に流れ着いた難破船だ」
彼のその告白は、私にとってひどく意外なものだった。
いつも油にまみれて力強く働き、この町にしっかりと根を張って生きている彼に、まさか私と同じような「挫折と逃避」の過去があったなんて、想像もしていなかったのだ。
「帰ってきた時は、毎日死にたかったっすね。同級生は都会でうまくやってるのに、俺だけが負け犬になって戻ってきた。毎日毎日、このベンチから海を見下ろして、『俺の人生、ここで錆びついて終わるんだな』って、本気で思ってた」
「……今の海里くんからは、全然想像できない」
「親父の造船所で無理やり働かされてるうちに、少しずつ直っていったんすよ。船と同じで、ゆっくり休んで、錆を落として、また油を差せば、エンジンはいつか必ず動くようになる」
海里は私の方へ顔を向け、少しだけ優しく微笑んだ。
「あんたはさっき、『羅針盤が壊れた船みたいだ』って言ったでしょ」
「うん……行き先も、目標も、何もないから」
「目標なんて、なくていいんすよ。昔の船乗りがどうやって夜の海を渡ってたか、知ってるか?」
「えっと……星を、見てたとか?」
「そう。それと、遠くに見える街の灯りや、潮の流れ。羅針盤がぶっ壊れて自分がどこにいるかわからなくなったら、とりあえず顔を上げて、遠くの明るい星を探せばいい。焦ってフルスピードで進まなくたって、波に任せて漂っていれば、いつか必ずどこかの陸地に辿り着く」
目標がないなら、無理に設定しなくていい。
今はただ、見えている小さな星の光や、心地よいと感じる方角へ、波に任せて漂えばいい。
彼のその言葉は、都会のシステムの中で「常に明確なキャリアプランを持て」と教え込まれてきた私にとって、目から鱗が落ちるような、あまりにも優しくて温かい真理だった。
「羅針盤がなくても、海は渡れる。……俺も、そうやって少しずつ漂いながら、やっとこの町で生きる覚悟ができたところだから。だからあんたも、そんなに生き急がなくていいんすよ」
海里の不器用で真っ直ぐな言葉が、私の中でガチガチに固まっていた最後の氷を、完全に溶かしてくれた。
都会に戻らなければならないという強迫観念。
立ち止まっている自分への自己嫌悪。
そんなものは、彼がくれたホットココアの熱と、羅針盤を持たない船の航海術の前に、するすると解けて消え去ってしまった。
「……ありがとう、海里くん」
私は、コートのポケットの中でずっと重い鉛のように感じていたスマートフォンから、ゆっくりと手を離した。
「私、少しだけ……今の自分を許してあげられるような気がする。羅針盤が壊れてても、ここで休んでていいんだって、思えたよ」
心からの感謝を伝えると、海里は「どういたしまして」と照れくさそうに頭を掻いた。
そして、そのまま立ち上がろうとした私より一瞬早く、彼が真剣な顔つきで動いた。
「あ、でも……」
沈みゆく夕陽の最後の光が私たちを照らす中。
海里の少し荒れた大きな手が、私の右腕を、そっと、けれど確かな力で掴んでいた。




