第67話 錆びた羅針盤と、沈みゆく夕陽(1)
強烈なオレンジ色の夕日が、分厚い冬の雲を切り裂くようにして展望公園に差し込んだ。
「あんたは今、漂流してるんじゃない。ただ……」
途切れた海里の言葉の続きを待つ間、波止場から聞こえるくぐもった海鳴りだけが、私たちの間を重く埋めていた。
夕日に照らし出された彼の顔には、普段のぶっきらぼうだけれどどこか飄々とした青年らしさは消え失せている。代わりにそこにあったのは、油にまみれた手で毎日鉄の塊と向き合っている、職人としての真摯で、少し怒っているような表情だった。
私は、彼にぶつけてしまった自分の惨めな感情を激しく後悔していた。
「ごめん、海里くん……やっぱり、こんな話、聞かせるべきじゃなかった」
私は震える声でそう言い、手の中の温かいココアに視線を落とした。
「私、本当にダメなんだよ。社会のレールから外れて、自分がどこに向かえばいいのかもわからなくなって……まるで、羅針盤が壊れた船みたい。行き先もわからずに、ただ波に流されて、あてもなく漂流しているだけ。そんな空っぽの自分が、恥ずかしくてたまらないの」
羅針盤なき漂流。
それが、この町での半年間を振り返った時に、自分自身に下した残酷な評価だった。
都会でWebデザイナーとしてバリバリと働いていた頃の私は、明確な目標という羅針盤を持っていた。何歳までにチーフになり、どんな案件をこなし、どう生きていくか。しかし、その羅針盤が過労とストレスで完全に壊れてしまった今、ただ風に吹かれるままにこの町に流れ着き、錆びついていくのを待っているだけの難破船なのだと。
「……違うな」
海里の低く通る声が、私の自嘲をピシャリと撥ね退けた。
顔を上げると、彼は自分のスチール缶を両手で包み込んだまま、呆れたような、けれどひどく深い、凪いだ海のような目を向けていた。
「あんたは海のこと、船のこと、全然わかっちゃいない」
「え……?」
「いいか。船のエンジンが焼け焦げるまで酷使されて、羅針盤までぶっ壊れた時、船乗りはどうすると思う?」
彼は私に問いかけながら、冷たい海風に吹かれるのも構わずに、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そのまま波に身を任せてたら、岩礁にぶつかって木端微塵になって沈没するだけだ。だから、そういう時はどうにかして安全な港を見つけて、何よりも先に『錨』を下ろすんだよ。それ以上、波に流されて致命傷を負わないようにするためにな」
海里の指さす先には、鈍いオレンジ色に染まった波止場と、そこに係留されて静かに羽を休めている小さな漁船たちの姿があった。太いロープで岸壁に繋がれた船たちは、波に揺られながらも、決してそこから流されることはない。
「あんたは、漂流なんかしてない。あの東京ってコンクリートの海でエンジンがぶっ壊れる寸前だったから、本能的にこの港町まで逃げてきて、自らの意思で安全な場所に錨を下ろしたんだ。……わかるか? 今のあんたは、ただエンジンを休ませて、修理している最中なんだよ」
『錨を下ろして、エンジンを休ませている』。
その言葉は、冷たく強張っていた私の心の最も柔らかい部分に、真っ直ぐに、そして深く突き刺さった。
私はずっと、動けなくなった自分を「エンストして錆びついていく鉄くず」のように思い込んでいた。休んでいる自分を許せず、早く動かなければと焦るばかりで、傷ついたエンジンを労わることなんて一度もしてこなかった。
けれど、海里は違う。
造船所で毎日、傷ついた船を直している彼は、動けなくなった状態を決して「無駄な時間」だとは否定しなかったのだ。直すためには、まずはしっかりと安全な場所で停泊し、エンジンを止めなければならないのだと。
「……錨を、下ろしてるだけ……」
「そう。だから、無理して今すぐエンジンを回す必要なんてねぇんだよ。焦って中途半端な状態で海に出たら、今度こそ本当に海の底に沈んじまうぞ」
海里のぶっきらぼうな、けれど不器用な優しさに満ちた言葉が、凍りついていた私の心をゆっくりと溶かしていく。
ずっと誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。
『今は動かなくていい』『休むことは、逃げじゃない』と。
それを、都会のシステムの中の誰かではなく、この小さな港町で潮風に吹かれながら、自分の手で何かを直して生きている彼に言われたことが、どうしようもなく嬉しかった。
気がつけば、私の目からはポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
慌てて手の甲で拭おうとするけれど、半年間ずっと張り詰めていた緊張という名の堰を切った感情は止まってくれず、次から次へと涙が溢れてくる。
「あ……ごめん。私、どうかしちゃったみたい……」
泣き顔を見られたくなくて、マフラーに顔を押し付ける私に、海里は慌てることもなく、ただ静かに隣に座っていてくれた。
「泣きたいだけ泣けばいいっすよ。それも、立派な修理の過程だ」
波の音と、彼の深く規則正しい息遣いだけが聞こえる。手の中のココアはまだ温かく、その熱が、不甲斐ない私の心を少しずつ、確かに修復してくれているような気がした。




