第66話 停滞の海風と、エンストした心(3)
ピタリと、隣で海里がココアを飲もうとしていた動きが止まった。
眼下の波止場から聞こえていた漁船の軋む音も、ヒューヒューと耳障りに鳴っていた海風の音も、その瞬間だけは遠くへ押し流されてしまったかのようだった。
ひどく重たくて長い数秒間の沈黙の後、海里がゆっくりと顔をこちらに向けた。
「……いなくなるって。東京に、帰るってことっすか」
その声は、いつもの少しぶっきらぼうで明るいトーンとは違い、ひどく低く、微かに掠れていた。
「……さっきね、前の職場の上司からメッセージが来たの。新しいプロジェクトが始まるから、東京に戻ってこないかって」
私は手の中にある赤いスチール缶の熱にすがりつくように、両手でギュッとそれを握りしめた。
「戻ってこいって……あんた、あそこでボロボロになるまで使い潰されて、逃げるようにこっちに来たんじゃなかったんすか」
「そうだよ。だから、すごく怖い。あんな風に心が折れる思いは、もう二度としたくないって思ってる」
口に出すと、情けなさがより一層輪郭を持って迫ってきた。
逃げ出したはずの場所に、また戻ろうとしている自分。それほどまでに、私は今の「空っぽの自分」に耐えられなくなっていたのだ。
「私ね、この半年間、ただ逃げていただけなんだって気づいたの。図書館での仕事は穏やかで、誰も私を責めないし、プレッシャーもない。でも……周りの同世代の友達は、ちゃんと前を向いて、傷つきながらでも自分の足で歩いてる」
ココアの甘い匂いがするのに、口の中はひどく苦かった。
「なのに私だけが、こんなところで時間を止めてる。充電期間なんて綺麗な言葉で誤魔化してるけど、本当は社会からドロップアウトして、誰からも必要とされないまま……ただ息をしてるだけ。それが、無性に怖くて、惨めなんだよ」
海里は何も言わなかった。
ただ、私から視線を外し、再び鈍いオレンジ色に染まり始めた海へと顔を向けていた。
潮風に煽られる彼の横顔は、いつになく硬く、強張っているように見えた。
(……ごめんね)
心の中で小さく謝る。
彼からすれば、都会から逃げてきた女の、身勝手で面倒くさい葛藤にすぎない。毎日汗と油にまみれて、自分の腕一本で確かな生活を築いている彼に、こんな贅沢な悩みをぶつけるべきではなかったのだ。せっかく彼が買ってきてくれた温かいココアの味まで、泥水のように不味くさせてしまった。
「ごめん、変なこと言って。今の、やっぱり忘れて」
私が無理に笑って話を終わらせようとした、その時だった。
メキッ、と。
海里の握りしめていたスチール缶が、彼の握力に耐えきれずに嫌な音を立てて凹んだ。
「忘れるわけないでしょ」
海里が顔をこちらに向けた。
その瞳には、いつも私に向けられていた「気まぐれな優しさ」とは全く違う、ひどく熱を帯びた、切実な感情が渦巻いていた。
「……海里、くん?」
「あんたは『ここで時間を止めてるだけ』って言うけどさ。俺にとっては、あんたがこの町に来てからの半年は……ただの『通りすがりのよそ者』の滞在期間なんかじゃなかったんだよ」
彼が吐き出した白い息が、冷たい空気の中で熱く揺らいだ。
いつもなら数分だけ他愛のない会話をして、「じゃあ、また」と別れるはずだった、無害で心地よい関係。その見えない境界線を、彼が今、自分から踏み越えようとしているのがわかった。
「周りに置いていかれてる気がする? 何者にもなれてない?」
海里は凹んだ缶を持ったまま、私を真っ直ぐに見据えた。
「ふざけんな。あんたは今、漂流してるんじゃない。ただ……」
言いかけた彼の言葉を、一段と強く吹き付けた冬の海風が掻き消す。
西の空の雲が切れ、沈みゆく太陽の強烈なオレンジ色の光が、私たちを包み込むように展望公園に差し込んできた。




