第65話 停滞の海風と、エンストした心(2)
ザクッ、ザクッ。
背後の遊歩道から、砂利を踏みしめる重たい足音が聞こえてきた。
風の音に紛れて近づいてくるその足音に、美桜はビクッと肩を揺らし、ポケットに手を入れたまま振り返った。
「……やっぱり、ここにいた」
夕暮れの冷たい空気の中、白い息を吐きながら立っていたのは、海里だった。
町外れにある小さな造船所で働く彼は、いつも通り、少し油の匂いが染み付いた厚手の紺色の作業着姿だ。無造作に伸びた髪は潮風に吹かれて乱れ、その無骨な出で立ちは、東京のオフィス街ですれ違っていたような、隙のないスーツ姿の男たちとは対極にある。
「海里くん……仕事、終わったの?」
「ええ、さっき。造船所のシャッター閉めて、帰ろうかと思ったんすけど……下からこのベンチ見上げたら、あんたの背中が見えたから」
海里はそう言いながら、長い足を持て余すようにして美桜の隣にやってきた。
彼の大きな両手には、自動販売機で買ってきたばかりと思われる、真っ赤なスチール缶が二つ握られていた。
「ほら。受け取って」
「えっ?」
海里がぶっきらぼうに差し出してきたそれを、美桜は慌ててポケットから両手を出して受け取る。
ずしりとした重みと一緒に、凍えきっていた手のひらに、信じられないほどの熱が伝わってきた。自動販売機の「あたたかい」のラインナップの中でも、一際甘くて熱い、ココアの缶だ。
「……ありがとう。すごく、温かい」
「顔色、最悪っすよ。唇も真っ青だし。そんなとこでずっと潮風に吹かれてたら、本気で凍死しますって」
悪態をつきながらも、その声には不器用な気遣いが滲んでいる。海里は美桜から少しだけ距離を空けてベンチに腰を下ろすと、自分の分のココアのプルタブを、カシュッ、と小気味良い音を立てて開けた。
甘いココアの香りが、冷たい風に乗ってふわりと漂う。
美桜がこの町にやってきて半年。図書の貸し出しカウンターとアパートの往復だけだった彼女の生活の中で、海里は数少ない「知り合い」と呼べる存在だった。
仕事終わり、美桜が一人でこの展望公園のベンチで海を眺めていると、時折こうして海里がふらりと現れる。連絡先も知らないし、待ち合わせをしているわけでもない。ただ、気が向けば隣に座り、数分だけ他愛のない話をして、それぞれの家に帰っていく。
都会での「人脈」や「利害関係」とは無縁の、この適当で心地よい距離感が、美桜にとってはとても救いだった。
美桜も両手でココアの缶を包み込みながら、プルタブを開けた。一口飲むと、暴力的なまでの甘さと熱さが喉の奥を通り、冷え切っていた胃の腑をじんわりと温めていく。
「……生き返る」
小さくこぼした美桜の言葉に、海里は横目で彼女を見て、ふっと口角を上げた。
「でしょ。冬の港の特効薬っすよ、それ」
海里はそう言うと、美桜と同じように、鈍いオレンジ色に染まり始めた冬の海へと視線を向けた。
彼の横顔は、都会の男たちのような洗練されたものではないけれど、日差しと潮風に焼かれた肌には、自分の手で何かを作り、直してきた人間特有の力強さが宿っているように見えた。
(海里くんは、すごいな……)
毎日エンジンまみれになって船を修理し、この小さな町でしっかりと地に足をつけて生きている。
それに引き換え、自分はどうだろう。
手の中のココアの温かさに触れたことで、先ほどまで凍りついていた感情が少しずつ溶け出し、代わって、やり場のない惨めさが込み上げてきた。
今もまだ、コートのポケットの中には、都会からの誘いを告げるスマートフォンが重く沈んでいる。
答えを出せないまま、ただ時間だけをやり過ごしているだけの自分。彼のような、確かな生活の重みを持たない、空っぽの自分。
「……ねえ、海里くん」
「ん?」
「私ね、ここからいなくなるかもしれない」
手の中のココアの缶を見つめたまま、美桜の口から、ポツリとそんな言葉がこぼれ落ちていた。
自分でも無意識のうちに出た言葉だった。東京へ戻る決心がついたわけでもないのに、どうしてそんなことを言ってしまったのか、自分でもわからない。ただ、このエンストして動けなくなっている惨めな自分を、隣にいるこの真っ直ぐな青年に見透かされるのが、ひどく怖かったのかもしれない。
隣に座っていた海里の動きが、ピタリと止まる。
波止場から聞こえていた漁船の軋む音が、一瞬だけ、ひどく遠くに感じられた。




