第64話 停滞の海風と、エンストした心(1)
ヒューッという高く鋭い音が、冬特有の乾いた海風の冷たさを鼓膜に直接突き刺してくる。
港町を一望できる高台の小さな展望公園。色褪せた木のベンチに一人座る美桜は、厚手のウールコートの襟を立て、首元に巻いたマフラーに深く顔を埋めた。
足元からは、凍てつくような冷気がスニーカーの底を通して這い上がってくる。普段なら早々に職場の暖かい休憩室か、ストーブの効いたアパートの部屋へ逃げ帰っている時間だ。
それでも、今日の彼女はこの場所から動くことができなかった。
手の中で無機質に白く光るスマートフォンの画面に視線を釘付けにされたまま、まるで魔法をかけられたようにそこから立ち上がることができなかったのだ。
『美桜、調子はどう? そっちでの生活には慣れた? 実は来月から新しいプロジェクトが立ち上がるんだけど、どうしても美桜の力が必要なんだ。体調が戻っているなら、またうちのチームに戻ってきてくれないか』
メッセージの送り主は、半年前に逃げるように辞めた、東京のWebデザイン会社の元上司だった。
画面をスクロールする指先が、かじかんで微かに震えている。それは冬の寒さのせいだけではなく、あのコンクリートに囲まれた息苦しい日々を思い出したことで引き起こされた、心因性の震えだった。
半年前。美桜は連日の深夜残業と、クライアントからの終わりの見えない理不尽な要求に心をすり減らし、ついにはある朝、ベッドから全く起き上がれなくなってしまった。
自分の中でピンと張り詰めていた糸が、プツリと切れる音がはっきりと聞こえた。診断書を会社に叩きつけるようにして退職し、とにかく海が見える遠くの場所へ行きたいと、逃げるようにこの縁もゆかりもない小さな港町へと移り住んだ。
今は町の小さな図書館で、非常勤の司書として静かな日々を送っている。
誰からも急かされない、ノルマもない、ただ波の音と古い紙の匂いだけが漂う穏やかな生活。それは確かに、摩耗しきっていた彼女の心を少しずつ回復させてくれた。
しかし、半年という時間が経ち、呼吸が整ってくるにつれて、今度は別の焦燥感が彼女の胸をじわじわと侵食し始めていた。
(私、ここで何をしているんだろう)
同世代の友人たちは都会で着実にキャリアを積み、結婚し、眩しいほど前に進んでいる。SNSを開けば、彼らの充実した日々が嫌でも目に飛び込んでくる。それなのに自分だけが、この時間が止まったような田舎町で、ただ海を眺めて息をしているだけ。
社会の激しい流れから外れ、安全な場所で膝を抱えてうずくまっている自分が、ひどくちっぽけで、価値のない存在に思えて仕方がなかった。
そこへ届いた、元上司からのメッセージ。
戻れば、またあのすり減るような激務の日々が待っているかもしれない。また心が折れて、今度こそ立ち直れなくなってしまうかもしれない。
けれど、「君の力が必要だ」という言葉は、社会から自分が必要とされているという実感は、今の彼女が一番喉から手が出るほど欲しているものでもあった。
「戻るべき……なのかな。今のままじゃ、ダメだよね」
吐き出した白い息は、冬の冷たい海風に一瞬でさらわれ、空の彼方へちぎれて消えていった。
顔を上げると、目の前にはどこまでも広がる冬の海。西の空は太陽が沈みかけ、鈍いオレンジ色と灰色の雲が重なり合った、どこか重苦しいグラデーションを描いている。
眼下の波止場に係留された小さな漁船たちが、波に揺られてギシギシ、ギシギシと軋む音を立てていた。
その音はまるで、どこへも進むことができず、エンジンを止めたまま港で錆びついていく美桜自身の心の軋みのようだった。
前に進むのが怖い。
でも、ここに留まっている自分を許すこともできない。
心という名のエンジンが完全にエンストを起こし、焦ってキーを回しても、虚しいモーター音が響くだけ。
美桜はスマートフォンの画面を暗くし、冷え切った両手をコートのポケットに深く突っ込んだ。鉛色の波が打ち寄せる冷たい海を見つめながら、彼女はどうしようもない停滞感の中で、ただ息を潜めていた。




