第63話 新しい家の形と、明日への準備(3)
温かいコーヒーが胃の腑に落ちていくと同時に、僕の中で強張っていた最後の力がふっと抜けていくのを感じた。
隣を見ると、彼女も両手でマグカップを包み込みながら、幸せそうに目を閉じている。その穏やかな横顔を見ているだけで、僕の心までじんわりと満たされていくようだった。
「本当に、美味しいね」
「うん。今まで飲んだコーヒーの中で、一番かもしれない」
僕たちの静かな会話を聞いていた女性店主が、カウンターの奥で柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、お時間をいただいて丁寧にコーヒーを淹れた甲斐があります」
「このキッチンカー、ずっと前からここで営業されてるんですか?」
彼女が尋ねると、店主はアンティークランプの真鍮の縁をそっと指先で撫でながら答えた。
「いえ、私がここを引き継いだのは最近なんです。先代が大切にしていたこの場所と、この味を、今の私なりに少しずつ守っていけたらいいなと思いまして」
「少しずつ、守っていく……」
彼女は店主の言葉を反芻するように呟き、そして僕の顔を見て、ふふっと小さく笑った。
「なんだか、私たちみたいだね」
「……そうだな」
完璧じゃなくてもいい。不格好でも、時間がかかっても、自分たちの手で少しずつ大切なものを形にしていく。店主の静かな覚悟は、これから僕たちが作っていこうとしている生活の形と、どこか似ているような気がした。
ゆっくりと時間をかけてコーヒーを飲み終え、僕たちは空になったマグカップをカウンターに返した。
「ごちそうさまでした。すごく温まりました」
「また、喧嘩した時……じゃなくて、二人でゆっくりしたい時に来ます」
僕が少しおどけて言うと、彼女が「もう、何言ってるの」と僕の腕を軽く小突いた。店主はくすくすと笑い、「ええ、星が出ている夜なら、いつでもお待ちしておりますよ」と深くお辞儀をした。
『ポラリス』のオレンジ色の灯りに背を向け、僕たちは再び暗い夜道へと歩き出した。
来た時と同じように自然に手を繋ぐ。けれど、行きよりもずっと足取りは軽く、夜風の冷たさすらも心地よいスパイスのように感じられた。
「ねえ、明日はどうする? 日曜日だし、どこか出かける?」
歩きながら、彼女が繋いだ手をぶんぶんと前後に揺らして聞いてくる。
「そうだな……せっかく網戸が綺麗になったし、次は冬の隙間風対策だな。ホームセンターに行って、窓用の断熱シートと、分厚いカーテンでも見に行こうか」
「大賛成! ついでに、縁側に敷くふかふかのラグも欲しいな。二人で座っても冷たくないやつ」
「いいよ、買おう。それで、夕飯はスーパーで買い物して、あったかいお鍋にしよう」
「ふふっ、決まり。キムチ鍋がいいな。お肉多めで!」
弾むような声で明日の予定を語り合う。
そのどれもが、あの古い家を「二人の城」にするための作戦会議だ。昨日まであんなに重荷に感じていた生活のタスクが、今は二人で挑む楽しいミッションのように思えてくるから不思議だ。
角を曲がると、僕たちの暮らす古い平屋が見えてきた。
リビングの窓からは、出かける前につけたままにしておいた明かりが漏れている。昨夜、僕が一人で絶望しながら見つめていたあの小さな光が、今は『ポラリス』のランプと同じくらい、優しくて温かい、帰るべき場所の道標に見えた。
「……帰ろうか」
「うん、帰ろう」
玄関の引き戸に手をかける。昨日の夜は怒りに任せて乱暴に閉めてしまったけれど、今は音を立てないように、そっと優しく開けた。
冷たい風と一緒に、少しだけ埃っぽいような、古い木と畳の匂いが鼻をくすぐる。それはもう「不便な古い家」の匂いではなく、僕と彼女がこれから長い時間をかけて温めていく、大切な日常の匂いだった。
「ただいま」
誰もいない真っ暗な玄関に向かって、僕たちは二人で声を合わせた。
靴を脱ぎ、揃えて上がり框を上がる。
網戸をすり抜ける秋の風も、冷たい水しか出ない洗面台も、きっとこれからは全部二人で笑い飛ばしていける。
茜色に染まった縁側と、深夜の公園に灯る小さな星の光が、僕たちにそれを教えてくれたから。




