第60話 不器用なDIYと、茜色の縁側(3)
「あとは、この周りにはみ出た余分な網を切り落とすだけだ」
僕はカッターナイフの刃を新しく一段折り、アルミ枠の溝に沿って慎重に刃先を滑らせていった。
ツーッ、という小気味良い音とともに、ピロピロとはみ出していた余分な防虫網が切り離され、縁側の板の上にハラハラと落ちていく。網の端を引っ張ってくれていた彼女も、役目を終えてスッと手を離した。
その単調なカット作業をしながら、僕は胸の奥にずっとつかえていた、固くて重い塊が少しずつ溶けていくのを感じていた。
いらない網を切り捨てていくように、自分の中にあるちっぽけなプライドや、見栄や、意地のようなものが、足元へとポロポロと崩れ落ちていく。
最後の一辺を切り終え、カッターの刃を引っ込める。
立ち上がって新しい網戸をレールにはめ込むと、ピタリと音もなく収まった。もう、隙間風が吹き込むことも、虫が入ってくることもない。ピンと張られた真新しいグレーの網は、茜色に染まる秋の夕暮れの風景を、一枚の薄いフィルターを通して柔らかく室内に届けてくれていた。
「……できた。完璧じゃないか」
「うん。すごく綺麗」
僕たちは縁側に並んで腰を下ろし、完成したばかりの網戸を眺めた。
庭の木々の影が長く伸び、空は今日一番の深い茜色に染まっている。冷たい秋の風が頬を撫でたけれど、二人で作業を終えた後の心地よい疲労感のせいか、寒さは不思議と感じなかった。
「……手が、冷たかっただろ」
僕は、膝の上で重ねられている彼女の両手を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「ん? ああ、大丈夫。作業してたら熱中しちゃって、全然気にならなかったし」
彼女は気丈に笑って見せたが、その指先はまだ赤く悴んでいる。
僕は迷った末に、自分の少し不器用な右手を伸ばし、彼女のその冷たい両手の上にそっと重ねた。
ビクッと、彼女の肩が小さく揺れた。
昨日の夜、あんなにひどい言葉を投げつけて、彼女を深く傷つけたこの手。払いのけられても文句は言えないと思っていたが、彼女は逃げることなく、僕の手のひらの温もりを静かに受け入れてくれた。
「……昨日は、本当にごめん」
僕は彼女の顔を真っ直ぐに見つめ、あの冷たいテーブル越しでは言えなかった、本当の言葉を口にした。
「『こんな家、住みたくなかった』なんて……絶対に言ってはいけない嘘だった。君が俺たちの将来のために、毎日不動産屋のサイトを血眼になって探して、ようやく見つけてくれた大切な場所なのに。俺は、仕事や慣れない生活のプレッシャーから逃げたくて、一番ひどい言葉で君に八つ当たりをしたんだ」
言葉にすればするほど、自分の身勝手さが浮き彫りになって、情けなさで胸が苦しくなる。
それでも、今ここで伝えなければ、この茜色の空が夜の闇に沈んでしまえば、僕は二度とこの言葉を口にする勇気を持てなくなってしまう気がした。
「俺は、君と一緒にいられるなら、どこだって良かった。この古い平屋で、隙間風に文句を言いながら、こうして二人で不格好に網戸を直すような……そういう生活を、君と作っていきたかったんだ。それなのに、自分のことばっかりで、君の頑張りを全然見ていなかった。……本当に、ごめんなさい」
重ねた手の下で、彼女の指先が微かに震えるのがわかった。
彼女はうつむいたまま、しばらく何も言わなかった。縁側の静寂の中、遠くでカラスの鳴き声が聞こえる。
やがて、ポツリ、と。
彼女の膝の上に、小さな水滴が落ちた。
「……私だって、ごめんね」
顔を上げた彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。
夕日を反射してキラキラと光るその涙は、昨夜の悲しみや絶望の涙ではなく、ずっと張り詰めていた心の糸がようやく解けた、安堵の涙だった。
「私、焦ってた。古い家だからって、あなたに不便な思いをさせちゃいけないって、完璧に家事をしなきゃって……勝手にいっぱいいっぱいになって、あなたが手伝ってくれてることにも文句ばっかり言って。……あなたが私を嫌いになって、どこかへ行っちゃうんじゃないかって、ずっと怖かった」
彼女は重ねていた自分の手を裏返し、僕の右手をギュッと強く握り返してきた。
その力強さに、彼女が一人で抱え込んでいた不安の大きさを知り、僕はたまらず自分の左手も添えて、彼女の両手を包み込んだ。
「嫌いになるわけないだろ。どこにも行かないよ」
「……うん。うん……」
彼女は子供のようにしゃくりあげながら、何度も頷いた。
夕日が山の稜線に沈みかけ、茜色の空が少しずつ紫のグラデーションへと変わり始めている。
不格好で、不便で、隙間風の吹く古い家。
完璧な生活なんて、最初からどこにも売っていないのだと、僕たちはようやく気づくことができた。網戸一つ直すのにも悪戦苦闘して、ぶつかり合って、泣いて。そうやって泥臭く一緒に作業をしながら、僕たちはこの場所を「ただの古い家」から「二人の城」へと変えていくのだ。
「……手が、あったかくなってきた」
涙を拭いながら、彼女がふっと柔らかく微笑んだ。
「俺の手、無駄に体温高いからな」
僕たちは繋いだ手を見つめ合い、ようやく、いつものように二人で笑い合うことができた。
昨夜の冷え切った暗闇が嘘のように、今の僕たちの間には、確かな温度が通い合っている。
「よし」
僕は彼女の手を優しく離し、縁側から立ち上がった。
「完全に暗くなる前に、ちょっと散歩でもしないか? 昨日の夜、近くの公園で面白いものを見つけたんだ。……君と一緒に、どうしても行きたい場所がある」




