第61話 新しい家の形と、明日への準備(1)
「完全に暗くなる前に、ちょっと散歩でもしないか? 昨日の夜、近くの公園で面白いものを見つけたんだ。……君と一緒に、どうしても行きたい場所がある」
僕の提案に、彼女は少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうにふわりと微笑んだ。
「うん、行く。面白そうなものって何?」
「それは着いてからのお楽しみ。とりあえず、手が泥だらけだから洗ってこよう」
僕たちは縁側から立ち上がり、新しく張り替えたばかりの網戸をスッと閉めた。
今まで立て付けが悪くてガタガタと鳴っていたのが嘘のように、無音でスムーズにレールを滑る。ピタリと隙間なく閉まったガラス戸越しに見る庭の景色は、もうすっかり茜色から深い群青色へと沈みかけていた。
リビングを通って、古い洗面所へと向かう。
この家の洗面台は、お湯を出すための給湯器がまだ古いタイプで、スイッチを入れてからお湯に変わるまでひどく時間がかかる。
「うわっ、水つめたっ」
蛇口をひねって両手を洗おうとした僕は、思わず声を上げた。
「もう、横着してお湯が出るまで待たないからでしょ。貸して、私が先にお湯出しとくから」
隣に並んだ彼女が笑いながら僕を押し退け、蛇口のハンドルを調整してくれる。
昨日までなら、「こんな古い洗面台、不便で仕方ない」と心の中で毒づいていたはずのやり取りだ。しかし今は、そんな些細な不便さすらも、二人で共有する「生活のイベント」のように感じられた。
「来週末には、新しい給湯器の交換工事に来てくれるんだよな」
「うん。それまでは、この冷たい水で修行だね」
「修行か……。まあ、二人で文句言いながら手を洗うのも、あと一週間と思えば悪くないかもな」
冷水から徐々に温かくなっていくお湯で手を洗いながら、僕たちは顔を見合わせて笑った。
古い家は、ボタン一つで全てが完璧に整う最新のマンションとは違う。自分たちで手を入れ、工夫し、時には業者を呼んで直していく。そうやって少しずつ「自分たちの城」へとカスタマイズしていくプロセスそのものが、この家を選んだ本当の理由だったはずなのだ。
手を拭き、リビングに戻って外出の準備をする。
彼女は厚手のニットのカーディガンを羽織り、首元にぐるぐるとマフラーを巻いた。僕も、昨夜家を飛び出した時に掴んだのと同じ、少し厚手のジャケットに袖を通す。
昨日と全く同じ上着を着ているのに、その重さも、肌に触れる裏地の感触も、全く違うもののように感じられた。
「戸締まり、オッケー。じゃあ行こっか」
「うん」
ガラガラと音を立てて玄関の引き戸を開け、外に出る。
完全に日が落ちた住宅街の空気は、ツンと鼻の奥を刺すように冷たかった。空を見上げると、分厚い雲の隙間から、冬の訪れを知らせるような冷たい星がいくつか瞬き始めている。
ガチャリ、と鍵を閉める音が、静かな夜の道に響いた。
「寒いね」
彼女がマフラーに顔を埋めるようにして、僕の隣にピタリと寄り添ってきた。
「寒いな。ほら、手」
僕は自分の右手を差し出した。彼女は一瞬だけ照れくさそうに笑い、躊躇うことなくその小さな左手を僕の手のひらに重ねてきた。
冷え切った外気に晒されていても、繋いだ手と手の間だけは、じんわりと確かな熱を持っていた。
オレンジ色の街灯が点々と続く、郊外の静かな住宅街を二人で歩き出す。
「ねえ、昨日……一人でこの道を歩いたの?」
歩きながら、彼女がぽつりと尋ねた。
「うん。頭に血が上ってたから、最初は寒さなんて全然感じなかったんだけど……。冷静になってきたら、急にとんでもない寒さと後悔が押し寄せてきてさ」
僕は自嘲気味に笑いながら、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「自販機で冷たい缶コーヒーなんて買っちゃって、指の感覚なくなるし。帰ろうと思っても、君がどんな顔をして待ってるか考えたら怖くて、足が動かなくて……情けなかったよ、本当に」
「ふふっ、馬鹿みたい。冷たい缶コーヒーって」
「笑うなよ。こっちは真剣に凍え死ぬかと思ったんだぞ」
僕がむくれると、彼女は「ごめんごめん」と声を上げて笑った。
昨日の夜、僕はこの道を一人で、冷たい絶望と後悔を引きずりながら彷徨い歩いていた。
どこまでも続く暗闇の中で、自分が世界から切り離されてしまったような孤独を感じていた。
けれど今、同じ夜道を彼女と手を繋いで歩いていると、オレンジ色の街灯が僕たちの足元を優しく照らすスポットライトのように見えた。
「で、面白いものって、どこにあるの?」
「この先の角を曲がったところにある、小さな児童公園。昨日、そこにすごく温かそうな光が見えてさ」
僕は、あの『ポラリス』のレトロなキッチンカーを思い浮かべた。
昨日の僕は、自分の中のトゲトゲした感情のせいで、あの穏やかで完成された光の輪の中に入る資格がないと逃げ出してしまった。
でも、今の僕なら。
隣にいる彼女と、不格好ながらも確かな絆を結び直すことができた今の僕たちなら、きっとあの温かい灯りの下で、一緒に美味しいコーヒーを飲めるはずだ。
「公園? こんな夜に、公園に何があるの?」
首を傾げる彼女を、「行けばわかるよ」と引っ張りながら、僕は少しだけ歩くペースを速めた。
冷たい夜風が二人の間をすり抜けていく。
しかし、僕の心の中には、昨日までの「完璧にやらなければならない」という重圧も、言いようのない孤独感も、もう欠片も残っていなかった。
不便で、隙間風が吹いて、時にぶつかり合うこともある。それでも、一緒に網戸を張り替えて、冷たい水で笑い合いながら手を洗えるこの人がいれば、僕たちの毎日はきっと大丈夫だ。
「あ、見えてきた」
角を曲がると、暗い公園の入り口に、昨日と変わらない柔らかなオレンジ色の光がぽつんと灯っているのが見えた。
香ばしくて深い、焙煎されたコーヒーの香りが、冷たい風に乗って僕たちの鼻先をふわりと掠める。
「うわぁ……嘘、キッチンカー? こんな住宅街の公園に?」
彼女が驚きの声を上げ、繋いでいない方の手で口元を覆った。
僕は「ほら、行こう」と彼女の手を引き、その温かい光の輪の真ん中へと、今度こそ迷うことなく足を踏み入れた。




