第59話 不器用なDIYと、茜色の縁側(2)
振り返ると、そこには厚手のカーディガンを羽織った彼女が立っていた。
足元はモコモコのルームソックスを履いているとはいえ、この冷え込む夕暮れの縁側に出るには少し薄着だ。
彼女は無言のまましゃがみ込み、僕が縁側に投げ出した専用のローラーを拾い上げた。
「あ……」
何か言おうとした僕の言葉を遮るように、彼女はローラーの柄を僕の手に押し付けた。
「一人じゃ無理でしょ、これ。たわんじゃって」
「……うん。ゴムを入れる時に、どうしても網がズレちゃって」
「私がこっちの端を押さえて、ピンと張っておくから。それに合わせて、そっちからローラーで押し込んでいって」
彼女の口調は淡々としていたが、そこには昨夜のようなトゲはなかった。
彼女は古いアルミ枠の向かい側に回り込み、新しい防虫網の端を両手でしっかりと掴んだ。その小さな両手が、ピンと網に絶妙なテンションをかける。
「……ごめん。ありがとう」
僕は小さく呟き、再びローラーを握り直した。
「いくよ」
「うん」
網戸を挟んで、僕たちは向かい合わせにしゃがみ込んだ。
彼女が網を引っ張る力に合わせて、僕がゴムパッキンを溝に押し込んでいく。
ギュッ、ギュッ、と。
ゴムがアルミの溝にしっかりと噛み合っていく、小気味良い音が縁側に響き始めた。
一人で悪戦苦闘していた時のシワが嘘のように、網は綺麗に、そして真っ直ぐに張られていく。
「もう少し、強く引っ張った方がいい?」
「いや、これくらいでちょうどいい。あんまり強く引っ張ると、今度は枠が歪んで、ガラス戸にはまらなくなっちゃうから」
「そっか。じゃあ、このままでいくね」
短い、けれど確かな意思疎通。
それは、同棲を始めてから僕たちが一番必要としていた「調整」の作業そのものだった。
将来のために少しでも貯金をしようと、二人で納得して選んだはずの古い平屋。家賃の安さと引き換えに手に入れた不便さを、二人で協力するDIYで楽しく乗り越えていくはずだった。それなのに、いつしか僕たちは「完璧な生活」をこなすことに追われ、一番大切な「二人で作っていくプロセス」を楽しむ余裕を失っていたのだ。
網戸の張り替えと同じだ。
二人で暮らすということは、どちらか一方が力任せに引っ張っても、一人で抱え込んでも上手くいかない。互いの力加減を探り合い、時に緩め、時に張りながら、二人にとって一番心地よい『テンション』を不格好でも見つけていく。
僕たちがやろうとしていたのは、既製品の完璧な生活を買ってくることではなく、こういう泥臭い作業を積み重ねていくことだったはずだ。
「……ごめん、手が冷たいだろ。真っ赤になってる」
ゴムを押し込みながら尋ねると、彼女は自分の手元に視線を落とした。
冷たい秋の風に晒された彼女の指先は、赤く悴んでいた。それでも彼女は、防虫網の端をしっかりと握りしめたまま、手を離そうとはしなかった。
「大丈夫。それより、日が暮れる前に終わらせちゃお。暗くなると見えなくなっちゃうし」
「……うん。急ぐよ」
西日がさらに傾き、二人の影を古びた縁側の板の上に長く、長く伸ばしていく。
燃えるような茜色の光は、古い木造の平屋をノスタルジックに包み込み、向かい合って作業をする僕たちの横顔を、深く温かいオレンジ色に染め上げていた。
昨日飛び出した深夜の街の、あの凍りつくような暗闇とはまるで違う。
チクタクという柱時計の音しか聞こえなかった冷たい家の中に、今は僕たちの小さな息遣いと、二人で作業をする確かな音が満ちている。
一面、また一面と、網戸の四辺にゴムを押し込んでいく。
角を曲がるたびに、僕たちは無言でアルミ枠を持ち上げ、くるりと回して息を合わせた。その時、ほんの一瞬だけ二人の指先が触れ合う。
彼女の指は氷のように冷たかったけれど、その奥にある確かな体温が、僕に伝わってきた。
不器用な僕の作業を、彼女が黙ってサポートしてくれる。
口でごまかすような言い訳は、もう必要なかった。この静かな共同作業の時間が、頑なに意地を張っていた僕たちの心を、少しずつ、確実にほどいていった。
「よし、これで最後の一辺だ」
「うん、いけるよ」
最後の一辺は、二人とも完全にコツを掴んだのか、驚くほどスムーズに進んだ。
ギュッ、ギュッ、ギュッ。
網のテンションを一定に保ちながら、最後の角までゴムパッキンが到達する。僕はカッターを取り出し、余ったパッキンを慎重に切り落とした。
「……入った。終わったよ」
僕はカッターとローラーを縁側に置き、大きく息を吐き出した。
たるみもシワもない、ピンと張られた真新しい網戸。
「おぉ……綺麗に張れてるじゃない。すごいすごい」
彼女も手を放し、満足そうに完成した網戸を見つめた。
その顔には、昨夜の口論以来初めての、小さな、けれど確かな笑顔が浮かんでいた。




