第58話 不器用なDIYと、茜色の縁側(1)
昨夜、ダイニングテーブルを挟んで向かい合った僕たちは、結局、根本的な解決には至らないまま朝を迎えてしまった。
「昨日は、ひどいことを言ってごめん」
僕が絞り出すようにそう謝ると、彼女は小さく首を横に振り、「私も、感情的になってごめんね」とだけ返した。
表面上の謝罪は交わしたものの、あの古い家に対する不満や、お互いが抱え込んでいる生活のプレッシャーという根本的な問題は、テーブルの上に手付かずのまま残されていた。深く踏み込めば、また相手を傷つけてしまうかもしれない。そんな臆病な空気が二人の間に漂い、私たちは逃げるように、別々の布団で浅い眠りについたのだった。
そして、気まずい空気を引きずったまま迎えた土曜日の午後。
休日の古い平屋は、恐ろしいほど静かだった。
彼女はリビングのソファで膝を抱えるようにして本を読んでおり、僕は少し離れた和室で、意味もなくスマートフォンの画面をスクロールしていた。
テレビの音も、会話もない。ただ、柱時計の規則正しいチクタクという音と、時折外を通り過ぎる車の走行音だけが、やけに大きく響く。
同じ屋根の下にいるのに、その距離は何キロも離れているように感じられた。
(このままじゃ、本当にダメになる)
スマートフォンの画面を暗くして、僕は和室の天井を見上げた。
木目の浮き出た古い天井板。隙間から入り込む秋の冷たい風。
何か話題を見つけて話しかけなければと思うのに、喉の奥がカラカラに乾いて、言葉が出てこない。どんな言葉をかけても、今の張り詰めた空気を悪化させてしまうような気がして、動けずにいた。
ふと、視線を横に向けると、縁側へと続くガラス戸の向こうにある網戸が目に入った。
下の方の網が大きく破れ、そこから風が吹き込んでいる。
『ねえ、この網戸、そろそろ直してくれないかな。蚊は減ったけど、枯れ葉とか虫が入ってくるから』
引っ越してきたばかりの頃、彼女がそう言ってホームセンターのチラシを見せてきたことを思い出した。
「週末に直しておくよ」と安請け合いしたものの、休日は日々の疲れを癒やすことを優先してしまい、結局数ヶ月間、その網戸は破れたまま放置されていたのだ。
(……これだ)
僕は無言のまま立ち上がり、押し入れの奥をごそごそと探った。
先月、ようやく重い腰を上げてホームセンターで買ってきたものの、そのまま放置していた「網戸張り替えキット」の袋を見つけ出す。交換用の新しい防虫網と、それを固定するためのゴムパッキン、そして専用のローラーが入ったセットだ。
今、言葉で関係を修復できないのなら、せめて行動で示そう。
僕だって、この家での生活を投げ出したわけじゃない。二人で決めたこの場所を、少しでも快適にするために努力する気があるんだということを、不器用な僕なりに伝えたかった。
「……ちょっと、網戸直すわ」
リビングにいる彼女の背中に向かって、短く声をかける。
彼女は本から少しだけ顔を上げ、「……うん」とだけ小さく答えた。その声のトーンからは、彼女がどう思っているのか読み取ることはできなかった。
僕はキットとカッターナイフを小脇に抱え、ガラガラと音を立ててガラス戸を開け、縁側へと出た。
十一月も下旬に差し掛かろうとする夕方の空気は、冷たくて鋭い。庭の木々はすっかり葉を落とし、西の空には、薄い雲を透過した太陽が、少しずつその色を濃くしながら傾き始めていた。
冷たい板張りの縁側に座り込み、レールから外した古い網戸を寝かせる。
まずは、古い網を押さえているゴムパッキンを外さなければならない。しかし、長年の紫外線と雨風に晒されたゴムはカチカチに硬化しており、枠の溝にぴったりと張り付いて同化してしまっていた。
「くっ……固いな」
マイナスドライバーの先端を溝に差し込み、無理やりゴムを引っ張り出そうとするが、ブチッと途中で千切れてしまう。残った細かいゴムの破片を少しずつ掻き出す作業は、想像以上に地道で骨の折れるものだった。
冷たい風に吹かれながら、僕は一人、縁側で古いアルミ枠と格闘し続けた。
何度やっても途中で千切れるゴムパッキン。それはまるで、今の僕たち二人の関係のようだった。
強引に引っ張れば千切れてしまう。けれど、古いものをちゃんと取り除かなければ、新しい網を張ることはできない。
「痛っ……」
力を入れすぎたドライバーが滑り、指先を軽く擦り剥いた。
血が滲む指先を口でくわえながら、ふと顔を上げる。
西の空は、いつの間にか燃えるような茜色に染まっていた。古い平屋の瓦屋根も、庭の土も、そして僕が座っているこの縁側も、すべてがノスタルジックなオレンジ色の光に包み込まれている。
綺麗だ、と思った。
この不便で隙間風だらけの古い家も、こうして夕日に染まる時間だけは、どこか温かくて優しい表情を見せてくれる。
本当は、この茜色の景色を、彼女と一緒に並んで見たかった。
(俺は、こんなところで一人で何をやっているんだろう……)
焦りと自己嫌悪で、手元の作業はどんどん雑になっていく。
ようやく古い網を取り除き、新しい網を枠の上に広げたものの、ゴムを専用のローラーで押し込んでいく作業がうまくいかない。片方の手で網をピンと張りながら、もう片方の手でローラーを転がすのだが、どうしても網がたわんでしまい、シワが寄ってしまうのだ。
「あー、くそっ……!」
何度もやり直しているうちに網の端がほつれ始め、僕は苛立ちに任せてローラーを縁側に投げ出した。
カラン、という乾いた音が、静かな庭に空しく響く。
自分の不器用さが嫌になる。
仕事でも、生活でも、そして彼女との関係でも。僕はいつだって余裕がなくて、肝心なところで上手く立ち回ることができない。
投げ出したローラーを見つめたまま、僕は茜色に染まる縁側で、深く、長く、ため息をついた。
その時だった。
「……貸して」
背後から聞こえた静かな声とともに、ガラガラとガラス戸が開く音がした。




