第6話 嘘と近づく距離(3)
放課後の図書室。
壁掛け時計の針が進むカチカチという音だけが、やけに大きく聞こえていた。
カウンターに座る湊の手のひらには、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。
今日、栞が来たらすべてを打ち明ける。そう決心したものの、いざその時が近づくと、足の先から逃げ出したくなるような緊張感がせり上がってくる。
(大丈夫だ。彼女なら、きっとわかってくれる)
何度も自分に言い聞かせていると、図書室の重いスライドドアが静かに開いた。
「……結城くん、お疲れ様」
栞だった。
今日はいつもより少しだけ足取りが重く、表情にも隠しきれない疲労感が滲んでいる。それでも、湊の顔を見るとふっと目元を緩め、カウンターに歩み寄ってきた。
「この間の本、返しに来たよ。……すごく、よかった。あのファンタジーの世界、ずっと浸っていたいくらい綺麗だった」
「そっか。気に入ってくれてよかった」
本を受け取りながら、湊は深く息を吸い込んだ。
言うなら、今だ。この静かな空間に二人きりの今しかない。
「あのさ、篠原さん。……実は、君にどうしても言わなきゃいけないことがあって」
「えっ?」
栞が不思議そうに小首を傾げる。
湊は真っ直ぐに彼女の目を見つめ、口を開きかけた。
「僕、本当は――」
「栞ーー!! やっぱりここにいたー!」
その瞬間、図書室の静寂を切り裂くような甲高い声が響き渡った。
ビクッと肩を震わせた栞が振り返ると、そこには彼女のクラスメイトである派手なグループの女子が三人、入り口に立っていた。
「もう、探したんだよ! 今日この後、駅前のカラオケ行くって言ってたじゃん!」
「LINE送っても未読だしー!」
「しーっ、図書室だから静かに!」
ドカドカと足音を立てて近づいてくる友人たち。
その姿を見た瞬間、栞の背中が、まるでスイッチが入ったかのようにピンと張り詰めるのを湊は見た。
「ごめんごめん! スマホ、マナーモードにしたままでさ!」
振り返った栞の顔には、先ほどまでの疲れ切った表情は微塵もなかった。
目を細め、声をワントーン高くして笑う、いつもの『明るい人気者の篠原栞』の完璧な仮面。一瞬で顔をすげ替えた彼女の姿に、湊は息を呑んだ。
「で、栞なにしてたのー? こんな地味なとこで。まさか本とか読んでたの?」
友人の一人が、からかうように笑いながら尋ねる。
その言葉に、栞は一瞬だけ口ごもり、チラリと湊の方を見た。だが、すぐに視線を逸らし、大きな声で笑い飛ばした。
「まさか! 私、本なんて全然読まないよー! ちょっと探し物してただけ! ほら、もう行こ行こ!」
栞は慌てて友人たちの背中を押し、出口へと向かおうとする。
そして、最後に一度だけカウンターの湊を振り返り、ひらひらと手を振った。
「ごめんね、結城くん! 返却よろしく!」
それは、まるでクラスの端にいる『ただの同級生』に向けるような、よそよそしくて、どこか薄っぺらい笑顔だった。
「本なんて読まない」という嘘。それは、彼女が必死に築き上げてきた自分の居場所を守るための、咄嗟の自己防衛だった。
「あ……」
湊が伸ばしかけた手は、虚空を掴むことしかできなかった。
バタバタという足音と賑やかな笑い声が遠ざかり、図書室には再び重苦しい静寂が戻ってきた。
カウンターに取り残された湊は、栞が返却した本を見つめながら、強く拳を握りしめた。
言えなかった。
彼女が必死に隠している「本当の自分」を、僕は見透かしているんだと。君の弱さも全部知っているんだと。
あの友人たちの前で、無理をして笑い、自分の好きなものすら否定してしまった彼女を引き留めることなんて、ただの図書委員の自分には到底できなかったのだ。
付箋の中で『作り物みたいな気がして』と泣いていた彼女の痛みが、今の湊には痛いほどよくわかった。
彼女は毎日、あんな風に一瞬で仮面を被り、本当の自分を押し殺して息をしている。
この日の出来事を境に、二人の間に生まれた細い糸は、一度見失われてしまうことになる。
図書室で静かに本の話をしたあの日々が、まるで嘘のように遠ざかっていく。
(僕は……なんて無力なんだろう)
夕暮れの図書室で、湊は一人、深い後悔とともに立ち尽くしていた。




