第5話 嘘と近づく距離(2)
あの日から、栞は週に二回のペースで図書室に顔を出すようになった。
「結城くん、この間のミステリー、すごく面白かった! 特に最後のあの伏線回収、鳥肌立っちゃった」
「でしょ? 僕も初めて読んだ時、完全に騙されたからね」
「もう、ずるいなー。次は絶対騙されないようなやつ、貸してよね」
放課後のカウンター。小声で言葉を交わしながら、栞は無邪気に笑う。
クラスで見せるような、周囲を気遣うための「完璧な笑顔」ではなく、少し力が抜けた、年相応の柔らかな表情だった。
湊はそんな彼女と本の話をする時間が、たまらなく好きになっていた。
「じゃあ、次はこれかな。少しファンタジー要素が入ってるんだけど、世界観が綺麗で読みやすいと思う」
「わあ、表紙からして好みかも。ありがとう、結城くん」
彼女が帰った後の図書室には、ほんのりと甘いシャンプーの香りが残る。湊はそれを胸いっぱいに吸い込みながら、自分が今、信じられないような奇跡の真ん中にいることを実感していた。
しかし、その幸福な現実の裏側で、湊の心には少しずつ『罪悪感』という名の黒い染みが広がり始めていた。
栞が図書室を訪れた翌日の放課後。
湊はいつものように郷土史コーナーの奥へと足を運び、分厚い辞典の裏から『海辺の街と、終わらない手紙』を引っ張り出した。
ページを開くと、そこには新しい桜色の付箋が挟まっていた。
『名前も知らないあなたへ。
最近、少しだけ嬉しいことがありました。
図書室で、本の話ができる友達ができたんです。その人がおすすめしてくれる本はどれも面白くて、図書室に行くのが楽しみになりました』
そこまで読んで、湊の頬が自然と緩む。
彼女が現実の自分との時間を「嬉しい」と思ってくれていることが、たまらなく誇らしかった。
だが、付箋の文章は、そこから徐々にトーンを落としていく。
『でも、やっぱり怖いんです。
私はその人の前でも、やっぱり少しだけ「明るくていい子」を演じてしまっています。本当の私が、こんな風にウジウジ悩む暗い性格だと知ったら、その人はがっかりして、離れていってしまうんじゃないか……そう思うと、本当の自分を出すのが怖くて』
文字の最後は、少しだけインクが滲んでいた。
湊は息を呑んだ。
現実の図書室では絶対に見せない、彼女の切実なSOS。そして、彼女が抱く「結城くん」に対する恐れ。
湊はペンを握りしめ、青い付箋に書き込んだ。
『がっかりなんて、絶対にしないと思います。
その人はきっと、あなたが無理して笑う姿よりも、本当の気持ちを話してくれることの方が、ずっと嬉しいはずですよ』
本に付箋を貼り終えると、ひどい自己嫌悪が波のように押し寄せてきた。
ずるい。僕はなんて卑怯な人間なんだろう。
現実では「本好きの同級生」として彼女に近づきながら、裏では「顔を知らない理解者」として彼女の一番脆い部分を覗き見している。
このままじゃダメだ。この二重生活は、いつか必ず彼女を深く傷つけることになる。
けれど、事実を知ったら彼女はどう思うだろうか。
自分が一番知られたくない本音を吐き出していた相手が、目の前にいる図書委員だったと知ったら。裏切られたような気持ちになって、二度と図書室に来てくれなくなるかもしれない。
その恐怖が、湊の喉の奥で真実の言葉をせき止めていた。
そんな葛藤を抱えたまま迎えた、金曜日の昼休み。
湊が一人で渡り廊下を歩いていると、中庭の方から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「えー! 栞、そのカフェ私も行きたーい!」
「うん、行こ行こ! 今度の日曜とかどう?」
数人の女子グループの中心で、栞が満面の笑みを浮かべていた。
「さすが栞、情報早ーい!」
キャピキャピとした声が行き交う中、栞は完璧なタイミングで相槌を打ち、決してその場の空気を壊さないように振る舞っている。
けれど、少し離れた場所から見つめる湊には、はっきりとわかってしまった。
笑い声を上げた直後、ふと視線を落とす瞬間に見せる、ひどく疲れたような影。
彼女は今も、息を止めて水中に潜るようにして、必死に『明るい篠原栞』を演じ続けているのだ。
(……僕が、言わなきゃ)
胸の奥で、何かがパツンと弾ける音がした。
嫌われてもいい。軽蔑されても構わない。
ただ、彼女に「もう無理をして笑わなくていいんだよ」と、直接自分の口で伝えたい。付箋越しではなく、結城湊として。
湊は固く拳を握りしめた。
今日の放課後、彼女が図書室に来たら、すべてを打ち明けよう。
僕が、青い付箋の主だと。君の本当の姿を、全部知っているのだと。




