第4話 嘘と近づく距離(1)
決意を固めたものの、それを実行に移すのは決して簡単なことではなかった。
『次、彼女が本を読みに来たら話しかける』
そう心に決めてから三日間、湊は図書室の当番中、ずっとそわそわしっぱなしだった。
木曜日の放課後。
ドアが開き、一人で図書室に入ってきた栞が郷土史コーナーの方へ向かうのが見えた。
今だ。湊はカウンターから立ち上がった。心臓の音が鼓膜に響くが、今はただ、彼女の日常に自然に踏み込むことだけを考えた。
「……あの、篠原さん」
声をかけると、栞はビクッと肩を跳ねさせ、いつもの愛想の良い笑顔を向けた。
「あ、結城くん! びっくりしたー。どうしたの?」
「ごめん、驚かせて。その、本を探してるのかなって思って」
湊はさりげなく棚を指さした。栞は少しだけホッとしたような顔をし、本を棚に戻す。
「うん、ちょっとね。最近、読みたい本がなくて困ってて」
「そうなんだ。……篠原さんって、結構本読むほうなの?」
湊はあえて、彼女が何を借りているかを知っていることを伏せた。
「うーん、たまにね。図書室って静かだから、意外と落ち着くっていうか」
栞が肩をすくめて笑う。その仕草一つひとつが、湊には新鮮だった。
湊はカウンターに戻り、事前に用意しておいた一冊の文庫本を手に取った。
「これ、よかったら読んでみる? 静かな物語が好きなら、気に入るかもしれない」
湊が差し出したのは、以前栞が付箋で言及していたテーマとは全く違う、少し風変わりな日常ミステリーだった。
栞は興味深げに表紙を受け取り、裏表紙のあらすじに目を落とした。
「……あ、これ!」
栞がパッと表情を明るくさせた。
「私、この作家さんの別作品、読んだことある! すごく独特な視点で書く人だよね」
「そうそう。結構クセがあるけど、一度ハマると抜け出せない感じで」
「わかる! この作家さんの描く日常の描き方、すごく綺麗な言葉で綴るから好き」
想定外の食いつきに、湊は少し驚き、そしてすぐに安堵した。
栞の声のトーンが、さっきまでの「愛想の良い学校モード」から、少しだけ低く、素に近い響きに変わっている。彼女も本当は、こうやって気兼ねなく好きなものの話を誰かとしたかったのだ。
「他にも、この作家の短編集とか読んでる?」
「あ、それ読んだことあるかも! あのお話の結末、結構意外でびっくりしなかった?」
「したした。あのどんでん返しは予想外だったよ」
カウンターを挟んで、他愛もない会話が続く。
栞の表情は柔らかく、時折見せる無邪気な笑みは、付箋の中の彼女とも、クラスでの彼女とも違う、湊だけが見ることのできる『新しい彼女』の顔だった。
付箋を通じて彼女の孤独を知っている湊と、ただの図書委員として接する湊。
その二つの視点が自分の中で混ざり合い、不思議な高揚感が胸を突き上げる。
「結城くんって、意外と面白い本選ぶんだね。もっとおすすめ教えてほしいな」
栞が少しだけ体を乗り出し、悪戯っぽく笑った。
「うん、また探しておくよ。次来るとき、持っておく」
栞が帰った後の図書室は、以前よりもずっと明るい場所に感じられた。
彼女はまだ、目の前にいる僕が、夜な夜な辞典の裏で言葉を交わしている相手だとは知らない。
(……このままでいい)
付箋の秘密を抱えながら、こうして現実でも少しずつ距離を近づけていく。
いつか、付箋を使わなくても、彼女が僕の前で本当の自分を出せるようになるまで。
そんな淡い期待を抱きながら、湊は次に渡す本を棚から選び始めた。




