第3話 図書室と付箋(3)
「結城くん、どうかした?」
カウンター越しに首を傾げる栞の目は、ビー玉のように澄んでいて。
その手首に貼り付いた『桜色の付箋』から目が離せなくなった湊は、トクンと大きく跳ねた自分の心臓の音を必死に押し殺した。
「……ううん。なんでもないよ。返却、確かに受け付けたから」
「そっか。じゃあ、ありがとう!」
栞はいつもの、誰からも好かれるような明るい笑顔を向けると、ひらひらと手を振って図書室を出て行った。
重いスライドドアが閉まり、再び静寂が戻ってきた図書室で、湊はゆっくりと息を吐き出した。
(篠原栞が……あの付箋の、相手?)
手元に残された『海辺の街と、終わらない手紙』の表紙を見つめながら、湊の頭の中はショート寸前だった。
クラスの中心にいて、いつも友達に囲まれて笑っている彼女。
そんな華やかな世界に住む人間が、誰も読まないような古いマイナー小説を借りて、あの分厚い辞典の裏で秘密の文通をしていたなんて。
そして何より、付箋に『本当の私は、もっと暗い人間なのに』とSOSを綴っていたなんて。
湊は周囲に人がいないことを確認すると、足早に郷土史コーナーへと向かった。
本を開くと、案の定、新しい桜色の付箋が挟まっていた。
『昨日、友達と喧嘩しそうになりました。
私が空気を読んで笑って誤魔化したから、何事もなく終わったけれど。
家に帰ってから、どうして自分はいつもこうなんだろうって、お風呂で少しだけ泣いてしまいました。
こんな弱い自分が、本当に嫌になります』
震えるような丸い文字。
それは、さっきカウンターで見せたあの完璧な笑顔からは、絶対に想像もつかないような彼女の悲鳴だった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
翌日から、湊は無意識のうちに、教室や廊下で栞の姿を目で追うようになっていた。
図書室にいるだけでは決して知ることのなかった、彼女の日常。
「えー! それウケるんだけど!」
「栞もそう思うっしょ?」
「うんうん、間違いない!」
昼休み、廊下で友人たちと談笑している彼女の声が聞こえる。
声のトーンは高く、相槌を打つタイミングも絶妙で、絶対にその場の空気を悪くしない。彼女の周りにはいつも、楽しげな笑い声が溢れていた。
けれど、付箋越しの「彼女の本当の声」を知ってしまった今の湊には、わかってしまった。
大きく笑った直後、ふと視線を落とす瞬間に見せる、ひどく疲れたような影。
話を合わせるために、少しだけひきつっている口元。
彼女は、息を止めて水中に潜るようにして、必死に『明るい篠原栞』を演じているのだ。
(誰にも、気づかれてないんだな)
誰も、彼女の本当の顔を見ていない。
彼女がどんな言葉で傷つき、夜の海辺で泣く小説の主人公に自分を重ね合わせているのかを。それを知っているのは、世界中で、青い付箋を持つ自分だけなのだ。
その事実は、湊の胸の奥に、仄暗い優越感と、それ以上の強い庇護欲を芽生えさせた。
その日の放課後、湊は郷土史コーナーに向かい、青い付箋にペンを走らせた。
もし今、「僕が相手だよ」と打ち明けてしまったら、彼女は恥ずかしさから二度と本音を吐き出せなくなってしまうかもしれない。
だから今はまだ、顔のない理解者でいよう。そう決めた。
『泣きたい時は、泣いていいと思います。
無理して空気を読んでしまうのは、あなたが周りの人を大切に思っている証拠です。
弱い人間なんかじゃありません。
でも、どうしても苦しい時は、またここに書き込んでください』
貼り終えた本を辞典の裏に戻し、湊は小さく息をついた。
付箋の世界では、彼女の心の一番柔らかい部分に触れることができる。
けれど、現実の世界では、ただカウンター越しにバーコードを読み取るだけの関係。
その途方もない距離を、ほんの少しでもいいから縮めたい。
付箋の向こう側にいる『君』と、現実の世界で、ちゃんと目を見て言葉を交わしてみたい。
(次、彼女がこの本を読みに来たら……思い切って話しかけてみよう)
それは、いつも教室の隅で息を潜めていた湊にとって、途方もなく勇気のいる決断だった。
窓の外では、夕暮れのチャイムが静かに鳴り響いていた。




