第56話 すれ違いの夜と、移動式喫茶の灯り(2)
光の輪から逃げるように、僕は公園の入り口に背を向けた。
あの『ポラリス』のカウンターで、マスターの淹れた温かいコーヒーを飲めば、少しは凍えた体と心が温まるかもしれない。けれど、今の自分の中に渦巻いているささくれ立った感情を、あの穏やかで完成された空間に持ち込んではいけないような気がしたのだ。
しばらく暗い住宅街を歩くと、角にポツンと立つ自動販売機の無機質な白い明かりが見えた。
冷え切った手を擦り合わせながら小銭入れから硬貨を取り出し、温かい飲み物のボタンを探す。しかし、赤く光る『あたたかい』のラインナップはすべて「準備中」になっており、仕方なく『つめたい』の青いランプの下にある微糖の缶コーヒーのボタンを押した。
ガコン、と重い音を立てて取り出し口に落ちてきたスチール缶は、氷のように冷たかった。
プルタブを開け、一気に喉に流し込む。冷たくて苦い液体が食道を通って胃に落ちていく感覚が、かえって今の熱を帯びた頭を冷やすのにはちょうどよかった。
「……俺だって、好きで怒鳴ったわけじゃないのに」
誰もいない夜道で、言い訳のような独り言が口をついて出る。
同棲を始めてから、まだたったの数ヶ月。将来の結婚資金を少しでも多く残すため、駅からの距離や築年数を妥協して選んだ郊外の古い平屋建て。家賃が相場より格安なのは助かったが、いざ生活を始めてみると、不便なことは山ほどあった。
立て付けが悪く、力を入れないと閉まらないガラス戸。すぐにブレーカーが落ちる古い配電盤。そして、秋の深まりとともに容赦なく忍び込んでくる隙間風の冷たさ。
僕たちは、ただ「一緒に暮らす」というその事実だけで、すべてが魔法のように上手くいくと無邪気に信じすぎていた。
育ってきた環境も、生活のペースも違う二人が、一つ屋根の下で暮らす。それは、お互いの「当たり前」を少しずつ削り出し、時には痛みを伴いながらすり合わせていく、途方もない作業だったのだ。
彼女は彼女で、この不便な家で必死に僕たちの生活を作ろうとしてくれていた。
古いキッチンのシンクを重曹でピカピカに磨き、隙間風を防ぐためのスポンジテープを休日のたびに窓枠に貼り、少しでも部屋が明るく見えるようにと、手作りのカーテンを縫ってくれていた。
僕だって、仕事で疲れ果てて帰ってきた後も、なるべくゴミ出しや風呂掃除を手伝おうと自分なりに努力していたつもりだ。
お互いに、相手のために良かれと思って無理をしている。それなのに、小さな生活のズレや疲労が積み重なり、いつの間にか「自分ばかりが我慢している」という被害者意識にすり替わってしまっていた。
『どうして私ばっかり、こんなに我慢しなきゃいけないの』
彼女の震える声が、耳の奥で何度もリフレインする。
本当は、彼女は僕を責めたかったわけじゃない。ただ、いっぱいいっぱいになっていたのだ。あの隙間風の吹く古い家の中で、完璧に家事をこなせない自分に焦り、僕という味方がいなくなってしまうのが怖くて、悲鳴を上げていただけだったのに。
「……最低だな、俺」
冷たい缶コーヒーを握りしめたまま、僕は夜空を見上げた。
雲に覆われた空には、星一つ見えない。
引っ越してきた初日、何もない畳の部屋の真ん中で、二人でスーパーの弁当を食べた時のことを思い出す。
『ここは少し古いけど、二人でDIYして、最高の秘密基地にしようね』
彼女はそう言って、不安と期待の入り混じった笑顔を見せてくれた。あの時、僕は「絶対にそうしよう、俺が守るから」と頷いたはずだった。
それなのに、僕は今日の喧嘩で、『俺だってこんな古い家、住みたくなかったよ』と吐き捨ててしまった。
彼女がどれだけ時間をかけてあの物件を探し、二人でどんな未来を描いていたか。その最初の約束すら根本から否定するような、ひどく冷酷な言葉だった。
早く帰って、謝らなければいけない。
頭ではわかっているのに、スニーカーを履いた足は、家の方角へは向いてくれなかった。今帰って、もし彼女が泣き崩れていたら。あるいは、絶望して荷物をまとめて出て行こうとしていたら。
そんな最悪の想像ばかりが膨らみ、臆病な僕の足を鉛のように重くする。
握りしめた缶コーヒーの冷たさが、徐々に指先の感覚を奪っていく。
僕は重い足取りのまま、見慣れない深夜の住宅街を、ただ当てもなく彷徨い続けた。あの『ポラリス』の温かい光から、どこまでも遠ざかるように。




