第55話 すれ違いの夜と、移動式喫茶の灯り(1)
玄関の引き戸を乱暴に閉めると、ガラピシャッという無骨な音が深夜の住宅街に響き渡った。
「しまった、強く閉めすぎた……」
一瞬だけ後悔したものの、いまさらバツが悪くて家の中に戻れるはずもなく、僕は逃げるように夜の闇へと歩き出した。
十一月も半ばを過ぎた深夜の空気は、薄手のパーカーしか羽織っていない体にはひどく冷たい。ポケットに両手を突っ込み、街灯の少ない郊外の道を当てもなく歩く。吐く息はうっすらと白く、アスファルトを蹴る自分の足音だけが、やけに大きく聞こえた。
同棲している彼女と、ひどい口論になった。
発端は、本当に些細なことだった。流し台に置きっぱなしになっていたマグカップのことか、休日に後回しにしてしまったゴミ出しのことか。今となっては、どちらが先に不満を口にしたのかも定かではない。
ただ、お互いに心の余裕がなくなっていたのだ。
将来の結婚資金を少しでも貯めようと、二人で話し合って決めた築四十年の古い平屋での賃貸生活。家賃が安い分、隙間風は容赦なく入ってくるし、水回りは使い勝手が悪く、あちこちにガタがきている。慣れない環境の中で、新しく二人で生活のルールを作り上げていく作業は、想像以上にエネルギーを消耗するものだった。
「どうして私ばっかり、こんなに我慢しなきゃいけないの」
彼女のその一言に、僕の中で張り詰めていた糸がプツリと切れてしまった。
僕だって我慢している。仕事のプレッシャーを抱えながら、慣れない家事も手伝っているつもりだ。そんな幼稚な反発心が口をついて出て、取り返しのつかない暴言となって彼女を傷つけた。
「なら、俺だってこんな古い家、住みたくなかったよ!」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の顔からサッと血の気が引き、うつむいてしまった。
彼女だって、少しでも節約しようと必死にこの物件を探してくれたのだ。自分がひどい言葉を投げつけてしまったことに気づきながらも、引っ込みがつかなくなった僕は、その泣きそうな顔から逃げるように上着だけを掴んで家を飛び出してきた。
冷たい夜風に吹かれて歩いているうちに、頭に上っていた血はすっかり下がり、後には重く冷たい自己嫌悪だけが残った。
(俺は、一体何をやっているんだろう。二人で決めたことなのに)
深くため息をつきながら角を曲がると、ふと、視界の先に柔らかい光が見えた。
近所の、普段は夜になると真っ暗になるはずの小さな児童公園だ。その入り口付近に、ポツンとオレンジ色の灯りがともっている。
警戒しながら近づいていくと、冷たい風に乗って、深く焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。
公園の車止めスロープの前に停まっていたのは、一台のレトロなキッチンカーだった。木目調のカウンター、アンティーク風のランプ、そして車体の横には『移動式深夜喫茶 ポラリス』という控えめな看板が掛けられている。
こんな深夜の住宅街に、喫茶店。
まるで狐にでもつままれたような気分で足を止め、公園の暗がりから遠巻きにその光景を眺めた。
カウンターの奥には、穏やかな顔つきのマスターらしき女性が立っている。そして、スツールに腰掛けているのは、厚手のコートを着た常連客らしき人物だった。
「……だから、あの時は本当に焦っちゃって」
「ははは、それは大変でしたね。でも、結果的には良かったです」
二人の間には、湯気を立てるマグカップが置かれている。何を話しているのか、具体的な内容までは聞こえないが、時折こぼれる穏やかな笑い声が、冷たい夜の空気をそこだけ温かく溶かしているように見えた。
マスターが細いポットからゆっくりとお湯を注ぎ、新しいコーヒーを淹れる静かな所作。常連客がそれを受け取り、両手で包み込んでホッと息をつく横顔。
そこには、さっきまで僕がいた、あのトゲトゲしくて冷たい部屋とは正反対の、優しくて穏やかな時間が流れていた。
誰かを責めることもなく、自分の正しさを主張して意地を張ることもない。ただ、美味しいコーヒーの温度を共有し、穏やかな夜を味わうだけの無害で心地よい空間。
「……あの二人、楽しそうだな」
ぽつりと、無意識のうちに声がこぼれ落ちた。
自分でも驚くほど、ひどく情けなくて、惨めな響きを持った声だった。
あんなに温かい場所が目の前にあるのに、今の僕はあそこへ歩み寄る資格がないような気がした。些細なことで意地を張り、一番大切にしなければならないはずの彼女をひどい言葉で傷つけて、冷たい夜道に逃げ出してきた僕。そんな人間が、あの穏やかな輪の中に加わって、美味しいコーヒーを飲む権利なんてあるはずがない。
アンティークランプのオレンジ色の光はあまりにも眩しく、暗闇に立つ僕の心の中にある後悔と孤独の輪郭を、残酷なほどくっきりと浮かび上がらせていた。




