第53話 オレンジ色の道と、それぞれの朝(2)
実家の玄関を開けると、朝からすでにじっとりとした夏の湿気が肌にまとわりついてきた。
愛車の軽自動車に乗り込み、エンジンをかける。カーオーディオから流れるアップテンポな曲に合わせて、いつもの県道を職場へと向かって走らせた。
窓の外に流れるのは、見慣れた田んぼの緑と、遠くに連なる山々。
拓海が「空気が美味い」と言っていたこの地元の風景が、今日の私には、いつもより少しだけ眩しく、誇らしく見えた。
職場である地元のメーカーのオフィスに着くと、朝の挨拶を交わした先輩社員が、私の顔を見てふと目を丸くした。
「あれ、栞ちゃん。なんだか今日、すごくスッキリした顔してるね。昨日まで『お盆明けで仕事行きたくない』ってあんなに文句言ってたのに」
「えっ、そうですか? ……まあ、ちょっといいことがあったというか、目が覚めたというか」
「ふーん? さては、東京から帰ってきてた例の彼と、何か進展でもあった?」
「か、彼じゃないですって! ただの幼馴染で……いや、その……」
今までなら「ただの幼馴染ですよ!」と全力で否定して、呆れ顔で笑い飛ばしていたところだ。
けれど、今日の私はうまく言葉を続けることができず、顔がカッと熱くなるのを誤魔化すように、慌てて自分のデスクのパソコンを立ち上げた。
先輩は「あやしいわねぇ」とニヤニヤしながら自分の席へと戻っていったけれど、その背中を見送る私の口角は、自分でもわかるくらいにだらしなく上がってしまっていた。
お昼休み。
社員食堂で定食を食べながらスマートフォンを開くと、拓海から一件のLINEメッセージが入っていた。
『満員電車で圧死寸前。でも、来週末のために生き延びるわ。そっちは?』
一緒に送られてきたのは、げっそりとした顔のクマのスタンプ。
私は思わず吹き出しそうになり、お茶を一口飲んでから、急いで文字を打ち込んだ。
『こっちは快適な車通勤ですー。来週末、駅まで迎えに行くから、それまでしっかり戦場(東京)で生き抜いてください!』
『あ、でも駅までジャージで行くのは禁止されたんだった。ちゃんとデート服で行くから楽しみにしてて』
送信ボタンを押すと、すぐに『既読』がつき、『了解であります』という敬礼のスタンプが返ってきた。
たったこれだけの、日常の他愛のないやり取り。
物理的な距離は、昨日までと何も変わっていない。東京と地方都市。新幹線を使っても数時間はかかる遠距離恋愛だ。
けれど、私たちの間にある「親友」という名の見えない境界線は、もうどこにもない。
私は彼を「安全地帯」で待つだけの傍観者ではなく、彼と同じように自分の戦場(日常)で戦いながら、一緒に並んで歩いていくパートナーになれたのだ。
(よし、私も午後から頑張ろう)
スマートフォンの画面を閉じ、私は小さく深呼吸をした。
彼が東京で戦っているように、私にも、この地元でやらなければならない自分の仕事がある。
「親友」という逃げ道を捨てて選んだ新しい関係は、遠距離ということもあり、時にすれ違い、不安になることもあるだろう。
けれど、昨日の夕暮れ、あの無人駅のベンチで彼と繋いだ手のひらの熱を思い出せば、どんなことでも乗り越えていけるような気がした。




