第51話 本音の輪郭(3)
「……うん。約束ね」
私は、自分を包み込んでいる彼の手のひらの中で、少しだけ指を動かした。
そして、彼の少しゴツゴツした指の間に自分の指を滑り込ませ、ギュッと握り返した。いわゆる「恋人繋ぎ」というやつだ。
「うわっ……」
拓海が小さく息を呑む音が聞こえた。
隣を盗み見ると、彼は繋いだ手と私の顔を交互に見比べながら、本気で動揺しているようだった。
「なに? 自分で手を出しておいて、握り返されたらビビってるの?」
「ビビってない。ビビってないけど……お前、そういうのサラッとやるタイプだったっけって、ちょっと脳がバグってるだけだ」
「七年間も親友やってたのに、私のこと全然わかってないんだね。私、意外と大胆なんだから」
強がって笑ってみせたけれど、本当は私の心臓も、破裂しそうなほどの音を立てている。
繋いだ手から伝わってくる彼の体温が、そして少し早くなった彼の脈拍が、嘘偽りのない「現実」として私の思考を埋め尽くしていく。
「あー……ダメだ、これ。なんか、すげえ照れる」
拓海は空いている方の手で顔を覆い、深いため息をついた。
いつもは余裕ぶって、私の恋愛相談にも上から目線で適当なアドバイスをしてきた彼が、こんなにも耳を赤くして狼狽えている。その不器用な姿が、なんだかとても愛おしくて、私はたまらず声を上げて笑ってしまった。
「ふふっ、あははは! なにそれ、拓海、顔真っ赤だよ」
「笑うなよ! こっちは七年分の『親友フィルター』を外して、今、必死にお前を『彼女』として上書き保存してる最中なんだから」
「上書き保存って……IT企業っぽい言い方やめてよ。でも、そっか。私たち、付き合うんだよね。……彼女かぁ」
自分の口から出たその響きに、私自身も少しだけ照れくさくなる。
周りの共通の友人たちが知ったら、一体どんな顔をするだろう。
「ほら見ろ、やっぱりお前らそうなる運命だったんだよ」と呆れられるか、それとも「今さら!?」と大爆笑されるか。
どちらにせよ、今までのように「ただの男女の友情だよ」と言い訳をすることは、もう二度とないのだ。
「……東京、案内してくれるの楽しみにしてる。でも、デートなんだから、いつもみたいに居酒屋で割り勘とかは無しだからね。ちょっとはカッコつけてよ」
私がわざとハードルを上げるように言うと、拓海は顔を覆っていた手を離し、今度はしっかりと私を見つめて笑い返した。
「当たり前だろ。最高に美味いフレンチでもイタリアンでも、奢ってやるよ。……だから、栞も」
「ん?」
「俺がこっちに帰ってきた時は、今までみたいにジャージ姿で駅まで迎えに来るの、禁止な。ちゃんとデート服で来いよ」
「えー、それはちょっと面倒くさいかも。私にとって拓海は、もう『身内』みたいなもんなのに」
「そういうところから変えていくんだよ、俺たちは!」
他愛のない言い合いが、オレンジ色の街灯の下に響く。
会話のテンポも、選ぶ言葉も、今までと何も変わらない。けれど、繋いだままの右手だけが、私たちが新しい関係へと踏み出した絶対的な証明として、熱を帯びたままそこにあった。
ふと気づくと、あれほど喧しく鳴いていたヒグラシの声は完全に止み、代わりにリリリリ……という秋の虫の涼やかな音色が、夜の帳を支配し始めていた。
スマートフォンの画面が光り、時刻は午後七時を回ったところだった。
東京へ向かう最終電車が来るまで、あと五十分。
「ねえ、拓海」
「ん?」
「あと五十分、どうする? 田舎の無人駅じゃ、時間潰す場所なんて何もないよ」
私が尋ねると、拓海は繋いだ手をもう一度ギュッと握り直し、夜空を見上げて静かに微笑んだ。
「何もしなくていいよ。ただこうして、あと五十分……次の電車が来るまで、隣に座ってようぜ。今まで無駄にしてきた七年分の時間を取り戻すみたいにさ」
その言葉に、私は深く頷いた。
蒸し暑かった夏の夜風が、今は不思議と心地よい。
オレンジ色の蛍光灯の下、色褪せたベンチに並んで座る私たちの新しい時間は、今、この名もなき無人駅で静かに動き始めていた。




