第49話 本音の輪郭(1)
「年末まで待てないって……それ、どういう意味だよ」
遠ざかる電車の走行音が完全に山間へと消え去り、再びヒグラシの鳴き声だけが支配する無人駅のホーム。
拓海の低く擦れた声が、夕暮れの静寂に波紋を広げるように響いた。
彼は足元に降ろしたキャンバス地のトートバッグを見つめたまま、私の方を見ようとしない。
その横顔からは、いつもの余裕のある「親友」の仮面が完全に剥がれ落ち、ひどく狼狽し、迷っている不器用な一人の大人の素顔が覗いていた。
「言葉通りの意味だよ」
私は震える膝を必死に押さえ込みながら、一歩だけ彼に近づいた。
「次のお正月まで、ただの地元の友達としてLINEで近況報告をして、たまに電話で仕事の愚痴を聞いて……そんなの、もう嫌だって言ってるの」
夕焼けのオレンジ色が少しずつ深みを増し、世界が赤紫色の夜の入り口へと姿を変えようとしている。
生温かい風がホームを吹き抜け、私の言葉を夏の終わりの空気の中へと溶かしていく。
拓海は大きく息を吐き出し、乱暴に自分の髪を掻き乱した。
「……お前さ、わかってて言ってるのか? 俺たちは七年間、ずっとこの距離でやってきたんだぞ。何でも話せるし、気を遣わなくていい。男とか女とか、そういう面倒なものを全部抜きにして、一番安心できる場所にいたはずだろ」
「安心できる場所……」
「そうだ。俺にとって栞は、東京でどれだけボロボロになっても、帰ってくれば絶対に変わらずに迎えてくれる、たった一つの『安全地帯』なんだよ。もしここで一線を越えて、付き合って……万が一ダメになったら、俺は帰る場所を完全に失うんだぞ」
彼の口から絞り出されたのは、私に対する拒絶ではなく、ひどく臆病で切実な「恐怖」だった。
東京という最前線で、毎日プレッシャーと戦いながら生きている彼。
周りには優秀な人間ばかりで、少しでも気を抜けば弾き出されてしまうような環境の中で、彼は必死に「デキる男」の鎧を纏って戦っているのだろう。
だからこそ、この田舎の無人駅で、昔から自分のダメなところを知っている私の前でだけは、その重い鎧を脱いで、ただの「拓海」に戻ることができたのだ。
「付き合う」という不確かな関係に踏み込むことで、その唯一のシェルターが崩壊してしまうことを、彼は誰よりも恐れていた。
「拓海……」
「だから俺は、栞を手放したくなかったからこそ、絶対に手を出さなかったんだ。このままずっと、一番近くにいる『ただの親友』でいるのが、一番確実にお前を失わない方法だったから」
苦しそうに歪んだ彼の表情を見て、私は胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
彼も、同じだったのだ。
傷つくのが怖くて、関係が壊れるのが怖くて、見えない線を引いて「親友」という安全な檻の中に閉じこもっていた。私だけが一人で悩んで、一人で焦っていたわけじゃなかった。
私たちは二人とも、同じように臆病で、同じように相手のことを大切に想いすぎて、動けなくなっていただけなのだ。
「……バカみたい」
気づけば、私の口からふっと笑い声が漏れていた。
張り詰めていた緊張の糸が解け、目頭が熱くなる。
「え?」
驚いて顔を上げた拓海に向かって、私は涙声のまま笑いかけた。
「私たち、本当に似た者同士だね。相手を失うのが怖いからって、一番欲しいものから目を背けて、都合のいい関係に逃げ込んでただけじゃない」
私はもう一歩、彼との距離を詰める。
彼が引いた見えない線を、今度こそ完全に踏み越えるために。
「ねえ、拓海。私はもう、セーブポイントになんてならなくていい。あなたが東京の戦場で傷ついたなら、安全地帯から『お疲れ様』って声をかけるんじゃなくて……隣で一緒に泥まみれになりたいの」
私の言葉に、拓海の目が大きく見開かれた。
彼の瞳の奥で、七年間凍りついていた何かが、音を立てて溶け出していくのがわかった。
「隣で一緒に泥まみれになるって……本気で言ってるのか。俺の仕事の愚痴、毎日聞かされることになるんだぞ」
拓海が、まだ信じられないというように、かすれた声で尋ねる。
「聞くよ。その代わり、私の仕事の理不尽な愚痴も、毎日東京まで電話で付き合ってもらうからね」
「遠距離恋愛だぞ。すぐには会えないし、すれ違うことだって絶対にある」
「親友のままでいたって、どうせ会えるのはお盆とお正月だけだったじゃない。それなら、会えない時間に『会いたい』って堂々と言える関係の方が、ずっといい」
私は真っ直ぐに彼を見つめ返した。
もう迷いはなかった。彼が必死に守ろうとしていた「安全地帯」を壊してでも、私は彼という人間そのものが欲しかった。ぬるま湯のような安心感よりも、火傷しそうなほど熱くて、ヒリヒリするような「現実」を、彼と共に生きていきたかったのだ。
拓海はしばらくの間、私の目をじっと見つめ返していた。
その視線は、もはや「親友」に向ける穏やかなものではなく、一人の女性を捉える、大人の男の熱を帯びたものに変わっていた。
「……負けたよ」
やがて、彼は深く息を吐き出し、降参するように両手を軽く上げた。
そして、今まで見たこともないような、ひどく優しくて、どこか泣きそうな笑顔を浮かべた。
「まさか、栞の方からその線を越えてくるなんて思わなかった。……俺よりずっと、男前じゃんか」
「七年間も待たせたんだから、これくらい当然でしょ」
彼が一歩、私に近づく。
お互いの靴のつま先が触れ合うほど、距離が縮まる。
夕暮れの風が二人の間を吹き抜け、彼の纏うかすかなオーデコロンの香りと、少しの汗の匂いが、私をふわりと包み込んだ。
西日が完全に山の向こうへと沈み、ヒグラシの声が遠のいていく。代わりに、秋を先取りしたような鈴虫の細い声が、足元の草むらから小さく響き始めていた。




