第48話 停滞と夕暮れ(3)
カンカンカンカン……。
遠くの踏切から響いてきた警報音は、単調で無機質で、私たちの間に流れていた曖昧な時間を容赦なく断ち切る合図のようだった。
「……来たな」
拓海がベンチから立ち上がり、足元に置いていたキャンバス地のトートバッグを肩にかけた。少し色褪せたネイビーのそのバッグは、彼が東京へ旅立つ時に新調したものだ。あの時はまだパリッとしていた生地が、今ではすっかり柔らかく、彼の肩のラインに馴染んでいる。
そのくたびれたキャンバス地が、彼が東京で過ごしてきた三年という月日の長さを、私にまざまざと突きつけてくるような気がした。
「今日はいろいろ付き合ってくれてサンキュ。車も出してもらっちゃって悪かったな。おばさんにも、お昼ごちそうさまでしたって伝えといて」
「うん。わかった。……気をつけてね。東京に戻ったら、またすぐ激務なんでしょ?」
「まあね。でも、今回の帰省でだいぶメンタルはチャージできたから。明日からまた、戦場に戻って頑張るよ」
拓海は冗談めかして笑い、西日を背にして私を見下ろした。
オレンジ色の光を逆光で浴びた彼の顔はシルエットになり、どんな表情をしているのか、私からはうまく読み取れない。
「次に帰ってくるのは……年末かな。正月休みには絶対帰るから、またその時、美味いもんでも食いに行こうぜ。今度は俺が奢るからさ」
「……うん。楽しみにしてる」
年末。お正月。
それはカレンダーの上ではたった数ヶ月先のことだけれど、今の私には、果てしなく遠い未来のように感じられた。
(数ヶ月あれば、何だって変わってしまうのに)
彼に新しく好きな人ができるかもしれない。私自身が、親や周囲からのプレッシャーに負けて、好きでもない誰かと妥協して付き合い始めているかもしれない。
「次もまた、親友として会える」という何の根拠もない保証を信じ込んでいられるほど、私たちはもう子供ではないのだ。
足元から、ゴゴゴ……という低い地響きが伝わってきた。
単線のレールが微かに震え、山の稜線に沿ってカーブを曲がってきた一両編成のローカル線が、ヘッドライトの光を射抜くようにこちらへ向かってくる。
電車の接近とともに、生温かい風がホームに吹き込んだ。
線路沿いの夏草の匂いと、鉄が擦れるような無骨な匂いが混ざり合い、鼻先を掠める。私の長い髪が風に煽られて頬を打ち、その痛みが、今この瞬間が紛れもない「現実」であることを教えてくれていた。
(このまま、帰したくない)
心の奥底で、小さく、けれどはっきりとした声が響いた。
彼にとって、私は一体何なのだろう。東京という戦場で傷つき、すり減った心を回復させるための、都合の良い「セーブポイント」にすぎないのだろうか。
何も変わらない田舎の風景の一部。いつ帰ってきても変わらずにそこにあって、昔話で笑い合い、また戦場へと送り出してくれる、安心で無害な幼馴染。
もしそうだとしたら、私はもう、そんな役割はごめんだ。
セーブポイントになんてならなくていい。傷ついても、泥まみれになってもいいから、彼と同じ戦場に立ちたい。彼の日常の一部になりたい。
キィィィィン……プシューッ。
甲高いブレーキ音とともに、二両編成の電車がホームに滑り込み、重いため息をつくようにドアが開いた。
車内はガラガラで、冷房の効いた冷たい空気が、足元から白い冷気となってホームへこぼれ落ちてくる。
「じゃあな、栞。また連絡するわ」
拓海が私に向かって軽く右手を上げ、電車のステップに足をかけた。
彼がこの電車に乗ってしまえば、魔法は解ける。私たちは再び「東京のIT企業で働く男性」と「地方で事務員をしている女性」という、交わることのない平行線に戻ってしまう。
次に会うお正月、彼が隣に知らない誰かを連れてきたとしても、私は「親友」という仮面を被って、笑顔で祝福しなければならなくなる。
そんなの、絶対に嫌だ。
「……待って」
無意識のうちに、私の口から声がこぼれていた。
自分でも驚くほど、低く、震えた声だった。
ステップに片足を乗せていた拓海が、驚いたように動きを止め、振り返る。
開け放たれた電車のドアの向こう側から、発車を知らせる短いベルの音が、ジリリリリッと鳴り響き始めた。
「栞? どうした? 忘れ物か?」
拓海が怪訝そうな顔をして、ステップから足を下ろす。
私はギュッと両手を握りしめ、大きく息を吸い込んだ。ヒグラシの鳴き声も、発車ベルの音も、今はもう私の耳には届いていなかった。
ただ、目の前にいる彼の、少しだけ疲れたような、だけど私を安心させてくれるその目だけを見つめていた。
「拓海」
私は、七年間守り続けてきた「安全な親友」という見えない壁を、自分の手で思い切り叩き割るように、言葉を紡いだ。
「年末までなんて、待てない」
夕暮れの無人駅。
落ちかけた太陽の最後の光が、震える私の足元を、ただ静かに照らし出していた。




