第47話 停滞と夕暮れ(2)
カナカナカナカナ……。
途切れることなく降り注ぐヒグラシの声は、まるで時間が止まってしまったかのような錯覚を抱かせる。
遠くに見える田んぼの緑は、落ちていく太陽の光を受けて、少しずつその色を濃く、そして暗く変えようとしていた。
「……東京、今頃はゲリラ豪雨かもしれないな」
拓海がふと、スマートフォンを開きながら言った。画面には天気予報のアプリが開かれているのだろう。
「そうなの?」
「うん。夕方から雷雨の予報が出てた。まあ、俺が着く頃には止んでるか、逆に本降りになってるか。どっちにしろ、あの蒸し暑いコンクリートジャングルに戻ると思うと、ちょっと気が重いよ」
彼はそう言って、わざとらしく大きなため息をついてみせた。
「なんだ、帰りたくないアピール?」
「そりゃあね。田舎の空気は美味いし、飯も美味いし。何より、こうやって何もしないでボーッとする時間なんて、東京じゃほとんどないからさ」
拓海はスマートフォンをポケットにしまい、ベンチの背もたれに深く寄りかかって、空を見上げた。
その横顔を見つめながら、私は心の中で、彼の言葉の裏側を勝手に探ってしまう。
『帰りたくない』という言葉の中に、ほんの少しでも「私と離れたくない」という気持ちが混ざっているのだろうか。いや、そんなはずはない。彼はただ、仕事のプレッシャーや都会の喧騒から逃れて、この長閑な田舎の空気に癒されているだけだ。私という存在は、その風景の一部、気の置けない地元の案内にすぎない。
「仕事、忙しいの?」
なるべく平坦な声で尋ねる。
「んー、まあね。新しいプロジェクトのリーダーを任されちゃってさ。やりがいはあるんだけど、下からは突き上げられるし、上からは数字を求められるし。毎日が綱渡りみたいな気分だよ」
拓海は自嘲気味に笑いながら、自分の首の後ろを撫でた。
その仕草は、彼が本当に疲れている時や、プレッシャーを感じている時に見せる癖だった。大学時代、サークルの合宿の準備で徹夜が続いた時も、就職活動で面接に落ち続けた時も、彼はいつもそうやって首の後ろを撫でていた。
その癖を知っているのは、きっと、彼が東京で付き合っている仕事仲間よりも、私のほうだろう。そんなちっぽけな優越感が、今の私を支える唯一の拠り所だった。
「無理しすぎないようにね。拓海、昔からそういうところあるから。自分一人で抱え込んで、限界まで我慢しちゃう癖」
「ははっ、栞にはお見通しか。さすが、付き合いが長いだけあるな」
『付き合いが長い』。
その言葉が、私の胸の奥をチクリと刺した。
大学の入学式でたまたま席が隣になり、なんとなく一緒にいるようになってから七年。
恋バナもしたし、くだらないことで喧嘩もしたし、お互いのダメなところもたくさん見てきた。
周りからは「絶対に付き合ってる」と噂されたこともあったけれど、私たちは決してその一線を越えようとはしなかった。
なぜなら、この「親友」という関係が、あまりにも居心地が良かったからだ。
恋人になれば、相手に期待してしまう。嫉妬もするだろうし、傷つくことも、傷つけることもあるだろう。もし別れてしまえば、もう二度と今までのように笑い合うことはできなくなる。
そんなリスクを負うくらいなら、今のまま、いつでも気兼ねなく連絡が取れて、会えば必ず笑顔になれる「特別な友達」でいた方がいい。
私たちは暗黙の了解で、その安全な距離感を守り続けてきたのだ。
しかし、社会人になり、それぞれが別の場所で、別の時間を生きるようになってから、その距離感に少しずつズレが生じ始めていることに、私は気づき始めていた。
彼が東京でどんな服を着て、どんな店でランチを食べ、どんな顔をして仕事をしているのか、私は知らない。彼が風邪を引いて寝込んだ夜、水を持ってきてくれる人がいたのかどうかも、私にはわからない。
「付き合いが長い親友」という特権は、実はとても脆く、過去の思い出の上に辛うじて成り立っているだけのものだという現実が、冷たく私に突きつけられていた。
風が、スッと吹き抜けた。
線路沿いのススキが、西日を受けて黄金色に揺れる。
「……あのさ、栞」
ふいに、拓海が少しトーンを落とした声で私を呼んだ。
「ん?」
私が振り向くと、彼は真っ直ぐに私の目を見ていた。その瞳の奥に、いつものふざけたような色はなく、どこか迷っているような、探るような光が揺れていた。
「この前、電話で言ってたこと、本当?」
「電話で……?」
「ほら、先月。会社の同期の結婚式に出たって言ってただろ。その時、『そろそろ私も、本気で将来のこと考えないとなー』って」
ドクン、と。心臓が嫌な音を立てた。
確かに言った。それは、彼に対するちょっとした牽制のつもりだった。「私はいつまでも、あなたにとって都合のいい親友のままでいるわけじゃない」という、ひどく臆病で計算高い、遠回しなアピール。
「ああ、うん。言ったよ。周りもどんどん結婚していくし、私だっていつまでも、こんなふうに実家にいて、週末は友達と遊んでるだけの生活じゃダメだなって。……焦ってるわけじゃないけどね」
私は努めて軽く、冗談めかして答えた。
しかし、拓海の表情は硬いままだった。
「……そっか。まあ、栞ならすぐに良い人見つかるよ。昔から、しっかりしてるし、気配りもできるし。地元の優良企業の社員なんて、引く手あまただろ」
彼はそう言って、無理に作ったような笑顔を見せた。
そして、再び視線を私から外し、何もない線路の先へと向けてしまった。
その瞬間、私はどうしようもない焦燥感に駆られた。
違う。私が言って欲しかったのは、そんなありきたりな励ましの言葉じゃない。
『じゃあ、俺と付き合う?』なんていう、冗談交じりの言葉でもよかった。彼から引き留めてほしかった。私が彼から離れていく可能性を、少しでも惜しんでほしかったのだ。
しかし、彼は私の心に踏み込んでくることはなかった。
いつものように、安全な距離を保ったまま、私の背中を軽く押すだけ。
(……ズルいよ、拓海)
私は唇を噛み締め、膝の上に置いた自分の両手を強く握りしめた。
ヒグラシの声は、相変わらず止むことなく響いている。
遠くの踏切が、カンカンカン、と赤く点滅し始めるのが見えた。
彼を東京へ連れ帰る電車の時間が、もうそこまで迫っていた。




