第45話 水鏡の夜明けと、走り出すためのエンジン(3)
高圧洗浄機のコントロールパネルに小銭が吸い込まれる音が、深夜の静寂に響く。
バチバチバチッ!
二台分の高圧洗浄機が放つ激しい水音が、重なり合って洗車場を満たした。
これまでは、理不尽な現実に耳を塞ぐための轟音だった。見えない汚れから逃げるための水しぶきだった。
しかし今夜の二人は違う。明日からの戦場へ再び向かうため、自分の大切な「鎧」を磨き上げるための、前向きな儀式としての洗車だ。
水音が止み、二人は黙々とそれぞれの車を拭き上げ始めた。
「長谷川さん、ルーフの真ん中、今日もお願いします」
「はいはい。背が低いんだから、脚立くらい買ったらどうですか」
「このアナログな不便さが、古い車の良いところなんですよ」
そんな軽口を叩き合いながら、悠真は水上のSUVのルーフの真ん中に残った水滴を、真新しいマイクロファイバータオルで丁寧に拭き取った。
すべての作業が終わった頃。
ふと見上げると、洗車場を煌々と照らしていた水銀灯が、パッと音もなく一斉に消灯した。
タイマーによる自動消灯だ。しかし、周りが真っ暗になることはなかった。東の空が、すでに薄紫から淡いオレンジ色へとグラデーションを描き始めていたからだ。
「……夜明けですね」
水上の声に、悠真も空を見上げた。
朝の光が、綺麗に拭き上げられた悠真のセダンと、水上のSUVのボンネットに真っ直ぐに降り注いでいる。
一切の汚れを落とし、磨き上げられた二台の車のボディは、まるで水鏡のように、新しい一日の始まりの空を鮮やかに映し出していた。
「……綺麗ですね」
「ええ。本当に」
名前と職業しか知らない。連絡先も交換していない。
次にいつ会えるかもわからないし、もしかしたら、もう二度と会うことはないかもしれない。
それでも、この深夜の洗車場というシェルターで交わした言葉と、共有した缶コーヒーの温度は、間違いなく明日からの二人を力強く前へと進めるエンジンになる。
「それじゃあ、長谷川さん」
水上が、SUVのドアに手をかけて振り返った。
その顔は、朝日に照らされて凛と輝いていた。
「またいつか、理不尽な泥水を被って泣きそうになったら……ここで缶コーヒー、奢ってくださいね」
「ええ、もちろん。その時は、最高級のマイクロファイバータオルも貸してあげますよ」
「ふふ、期待してます。……お仕事、頑張ってくださいね。最強のクッション材さん」
「水上さんも。その無骨な鎧と一緒に、戦場を駆け抜けてください」
ブルルルルッ。
水上がエンジンをかけ、軽くクラクションを二回鳴らす。悠真も大きく手を上げてそれに応えた。
角ばったSUVが、朝日に向かって力強く走り出していく。その後ろ姿がバイパスのカーブの向こうへ消えるまで見送った後、悠真も自分のセダンの運転席に乗り込んだ。
ドアを閉めると、密閉された車内に静寂が戻ってくる。
エンジンをかけると、滑らかで静かな駆動音が車内を満たした。
ハンドルを握る悠真の手には、もう何の迷いもなかった。
「よし」
悠真はシフトレバーをDに入れ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
水鏡のように朝焼けの空を映すグレーのセダンが、走り出す。
大人たちの静かな避難所だったコイン洗車場は、戦いへと向かう主役たちを見送り、また次の深夜が来るまで、バイパス沿いで静かな眠りについた。




