第44話 水鏡の夜明けと、走り出すためのエンジン(2)
見覚えのある角ばったシルエットが、ゆっくりと洗車場の敷地に入ってくる。
塗装の剥げた年代物のSUVは、悠真のセダンのすぐ隣、いつもの定位置に滑り込むように停まった。
エンジンが切れ、運転席のドアが開く。
降りてきた水上は、厚手のモッズコートに身を包み、首元にはぐるぐるとマフラーを巻いていた。冬の冷気に白い息を吐きながら、彼女は悠真に気づくと、パッと顔を輝かせた。
「長谷川さん! こんばんは」
「こんばんは、水上さん。……今日はまた、随分と遅い時間ですね。徹夜明けですか?」
悠真が尋ねると、水上はフフッと得意げに笑い、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、悠真の方へと歩み寄ってきた。その足取りは、ひどく疲労していた以前とは違い、ポンポンと跳ねるように軽い。
「いえ、今日は違います」
「違う?」
「さっき、あの理不尽なクライアントに『これ以上の無償修正はお受けできません。これにて納品とさせていただきます』って、きっちりメールを送ってやったところです」
水上は、ふうっと長く白い息を天に向かって吐き出した。
「もしこれで契約を切られるなら、それまでの縁だったって割り切ることにしました。いつまでも相手の顔色をうかがって、自分を安売りするの、やめたんです。私のこの大きな鎧(SUV)は、私が自分で守らなきゃいけないんだって、そう思って」
彼女の表情には、以前のような怯えや焦燥感はなかった。自分の足で立ち、自分の仕事に誇りを取り戻したフリーランスとしての、清々しい強さが宿っていた。
「おお……それは、大きな決断をしましたね」
「はい! ちょっと震えながら送信ボタン押しましたけどね。……そういう長谷川さんは? なんだか今日、車のボディみたいにツヤツヤしてますけど。さては、何か良いことありましたね?」
水上が悪戯っぽく覗き込んでくる。
悠真は自販機に向かい、温かいブラックと微糖の缶コーヒーを買うと、微糖の方を彼女に手渡しながら、小さく笑った。
「実は今日、初めて上司に噛み付いたんです。部下たちを守るために、無茶なノルマを跳ね除けてきました」
「えっ! あの『事なかれ主義のクッション材』だった長谷川さんが!?」
「ええ。あなたが『その見えない鎧のおかげで守られてる若手がいる』って言ってくれたからです。ただ殴られるだけのサンドバッグじゃなくて、時にはちゃんと弾き返す『鎧』になってみようと思いまして」
悠真の言葉を聞いて、水上は缶コーヒーを持った両手を胸の前で合わせ、心底嬉しそうに「わぁ……!」と声を漏らした。
「すごいです、長谷川さん。絶対に、部下の人たちも長谷川さんのこと、見直してますよ」
「どうですかね。ただの面倒な上司になっただけかもしれませんが。でも……不思議と後悔はないんです。すごく、息がしやすい」
それは、悠真の偽らざる本音だった。
波風を立てないように息を潜めていた昨日よりも、上司とぶつかり合い、責任を背負い込んだ今日の方が、ずっと空気が美味しく感じる。
「わかります。私も今、すっごく空気が美味しいです」
水上がニカッと笑い、自分の微糖コーヒーを悠真のブラックコーヒーへと差し出した。
カチン、と。
午前二時。冷たい冬の空気の中、温かいスチール缶の乾いた音が響いた。
お互いに、昼間の戦場で「自分の誇り」を守り抜いた。傷だらけになりながらも一歩前に進んだ二人の、ささやかな祝杯だった。
「さて、と。それじゃあ、溜まった誇りと一緒に、車の汚れも洗い流しますか」
水上が缶コーヒーを喉に流し込み、気合を入れるように両頬をパンッと叩いた。悠真もそれに頷き、それぞれの車に向かって歩き出す。
深夜のコイン洗車場は、逃げ込むためのシェルターから、明日へ向かうための準備を行う場所へと、その意味を静かに変えようとしていた。




