第43話 水鏡の夜明けと、走り出すためのエンジン(1)
あの深夜のコイン洗車場での会話から、さらに数週間が経った。
十一月も終わりに近づき、街には本格的な冬の冷たい風が吹き始めている。
金曜日の午後。悠真の会社の第一会議室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
「何度言ったらわかるんだ! 今月の数字、これじゃあ到底役員会議に通せないぞ!」
上座で顔を真っ赤にして怒鳴り散らしているのは、営業部長だ。その向かい側では、悠真のチームの若手たちが完全に萎縮し、じっとうつむいている。
いつもの光景だ。
これまでの悠真なら、ここで間髪入れずに「申し訳ありません。来週からさらに件数を回らせます」と頭を下げて、その場をやり過ごしていただろう。若手たちに無理をさせるとわかっていても、組織の波風を立てないための「事なかれ主義のクッション」として。
しかし、今日の悠真は違った。
テーブルの下でギュッと拳を握りしめ、顔を上げて、部長の目を真っ直ぐに見据えたのだ。
「……部長。彼らは今月、すでに規定の上限ギリギリまで残業して、新規開拓をこなしています。これ以上件数だけを追わせれば、既存顧客へのフォローがおろそかになり、結果的に来月の解約率に響いてしまいます」
「なんだと? 長谷川、お前は部下を甘やかしているのか!」
「甘やかしているわけではありません。チームを潰さず、中長期的に数字を伸ばすための戦略です。今月の不足分は、私が直接休眠顧客を回って補填します。ですから、彼らへの無茶なノルマの追加は待ってください」
会議室の空気が、ピンと張り詰めた。
若手たちが驚いたように一斉に悠真の顔を見る。悠真の背中には冷や汗が伝っていたが、その声には、今までのような曖昧な響きは一切なかった。
『長谷川さんのその見えない鎧のおかげで、守られてる若手が絶対いますから』
水上の言葉が、悠真の背骨に一本の太い芯を通していた。
自分はただの都合の良いサンドバッグじゃない。部下を守るための「鎧」なのだ。ならば、ただ殴られるのを待つのではなく、時には自ら前に出て、理不尽という攻撃を弾き返さなければならない。
数秒の緊迫した沈黙の後、部長は「……勝手にしろ。ただし、お前が言った数字は絶対に達成させろよ」と吐き捨てて、乱暴に会議室を出て行った。
「長谷川さん……」
部下の一人が、信じられないものを見るような目で悠真に声をかける。
悠真はネクタイを少し緩め、ふうっと長く息を吐き出して彼らに笑いかけた。
「聞いた通りだ。俺が泥臭く休眠顧客を掘り起こしてくるから、お前たちは今のペースを崩さず、目の前のお客さんを大事にしてくれ」
その日の夜。
すべての業務を終え、オフィスを出た時には、時計の針はすでに日付を越えていた。
連日の残業と今日のプレッシャーで疲労は骨の髄まで染み込んでいたが、不思議と心は羽が生えたように軽かった。
午前一時半。
悠真は無意識のうちに、車をあのバイパス沿いのコイン洗車場へと走らせていた。
今日は、理不尽な泥水を被ったから逃げ込んできたわけではない。自分の中に芽生えた小さな誇りと、前を向いて戦い抜いた清々しい疲れを、静かに洗い流すためだ。
洗車場に到着すると、過剰に明るい水銀灯の下には、一台の車も停まっていなかった。
悠真はセダンをいつものスペースに停め、車を降りる。冬の鋭い空気が、火照った頭を心地よく冷やしてくれた。
「……よし」
悠真は小銭入れを手に取り、洗車機の機械へと向かおうとした。
その時だった。
ブルルルルッ、と。
遠くの国道から、あの聞き覚えのある重たくて少しガタのきたエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。




