第42話 缶コーヒーの利息と、それぞれの戦場(3)
激しい水音が鳴り止み、再び深夜のコイン洗車場に静寂が戻ってきた。
悠真は自分のセダンの拭き上げをすっかり終え、タオルを畳んでいた。ふと隣を見ると、水上が背伸びをしながら、愛車のSUVのルーフ(屋根)を一生懸命に拭いているところだった。
角ばった無骨なSUVは、小柄な彼女には少し背が高すぎるらしい。プルプルと腕を震わせながらタオルを伸ばしているが、中央のあたりまではどうしても届いていない。
「……手伝いましょうか」
悠真が声をかけると、水上は少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
「あ、見られてましたか。いつもこのルーフの真ん中だけ、水滴が残っちゃうんです。走って風で飛ばそうか迷ってたところで……」
「だから水垢になるって言ったじゃないですか」
悠真は苦笑しながら、自分の手元にあった乾いたマイクロファイバータオルを持って、彼女のSUVへと近づいた。
「長谷川さん、自分の車は終わったんですか?」
「ええ。それに、さっきの缶コーヒーと、素晴らしい慰めの言葉の『利息』をまだ払っていませんから。少しだけ、便利なクッション材として使ってください」
悠真はひょいと手を伸ばし、水上が届かなかったルーフの中央部分の水滴を、滑らせるように綺麗に拭き取っていった。
「おお……さすが、背が高いと便利ですね」
「背が高いというより、あなたの車が大きすぎるんですよ。どうしてまた、こんな無骨な車に?」
「これ、亡くなった父のお下がりなんです。すごく燃費が悪いし、あちこちガタがきてるんですけど……なんだか、大きな鎧に守られてるみたいで、手放せなくて」
水上は、綺麗に拭き上げられたSUVのボディを、愛おしそうに撫でた。
フリーランスという、誰も守ってくれない戦場で一人戦う彼女。
そんな彼女にとって、この古くて大きなSUVは、社会の理理不尽から身を守るための「鎧」であり、唯一のシェルターなのだろう。自分のセダンが、何事もなく無難に生きようとする「透明なクッション材」であるように。
「……いい車ですね。よく似合ってますよ」
悠真が言うと、水上は嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます。長谷川さんのピカピカのセダンも、有能なビジネスマンって感じで素敵ですよ」
二台の車を拭き終えると、時刻は午前二時半を回っていた。
秋の気配を感じさせる深夜の冷たい風が、洗車場を吹き抜けていく。
「それじゃあ、長谷川さん。今日は本当にありがとうございました。ルーフまで拭いてもらっちゃって」
「いえ。こちらこそ、愚痴を聞いてもらってすっきりしました。……お互い、明日の戦場も頑張りましょう」
水上は「はい!」と力強く頷き、SUVの運転席に乗り込んだ。
重いエンジン音が鳴り響き、彼女の車がゆっくりと洗車場を出ていく。悠真はその後ろ姿を、テールランプの赤い光が見えなくなるまで見送った。
自分もセダンに乗り込み、エンジンをかける。
シートに深く腰を沈め、ハンドルを握る。不思議と、数時間前まで感じていたあの鉛のような疲労感は、嘘のように消え去っていた。
『長谷川さんのその見えない鎧のおかげで、守られてる若手が絶対いますから』
水上の言葉が、胸の奥でポッと温かい光を放っている。
明日もまた、部長に怒鳴られ、若手になじられる一日が待っているかもしれない。でも、それが自分がこの組織で果たしている「役割」なのだと、今は少しだけ誇りに思える気がした。
「よし……行くか」
悠真はシフトレバーをDに入れ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
過剰に明るい水銀灯の光を背に受け、ピカピカに磨き上げられた無難なグレーのセダンが、深夜のバイパスへと滑り出していく。
透明なクッション材は、また明日からの戦いに備え、静かに夜の闇の中を進んでいった。




