第41話 缶コーヒーの利息と、それぞれの戦場(2)
「『長谷川さんは、どっちの味方なんですか』……って、言われちゃいましてね」
ぽつりと、悠真の口からそんな言葉がこぼれ落ちた。
愚痴をこぼすつもりはなかった。けれど、この過剰に明るい水銀灯の下で、水上から「お疲れですね」と労われた瞬間、胸の奥で固く結んでいたはずの糸が、ふつりと切れてしまったのだ。
「部長の無茶な数字と、若手の正論。どっちも間違ってないし、どっちの言い分もわかるんです。だからこそ、間に入ってなんとか組織を回そうとしてるんですが……彼らから見れば、上にも下にもいい顔をしてるだけの、事なかれ主義のつまらない大人なんでしょうね」
自嘲気味に笑いながら、悠真は手の中の微糖コーヒーを見つめた。
水上は何も言わず、ただ静かに悠真の言葉に耳を傾けていた。時折、遠くのバイパスを走り抜けるトラックの音が、二人の間の沈黙を埋めるように通り過ぎていく。
「……長谷川さんって、本当に真面目なクッション材なんですね」
やがて、水上がブラックコーヒーの缶を両手で包み込むように持ちながら、ぽつりと言った。
「フリーランスって、上司も部下もいないから、そういう人間関係の板挟みはないんです。だから、ちょっと気楽に見えるかもしれないですけど」
そこで水上は言葉を切り、自分の年代物のSUVへと視線を移した。
「その代わり、クッションも命綱もゼロなんです。ミスをすれば、クライアントからの信用というアスファルトに、ノーブレーキで顔面から直撃する。全部自分の責任で、誰も守ってくれないし、代わりに謝ってもくれない。……それが怖くて、結局クライアントの理不尽な要求にも『やります』って笑って答えちゃうんですよね」
彼女の横顔には、二週間前にここで初めて会った時と同じような、大人の孤独と疲労感が滲んでいた。
「だから私、時々すごく羨ましくなるんです。会社員の人たちが。理不尽でも、面倒でも……私がもし大きな失敗をして泣きそうになった時、長谷川さんみたいに、間に立って一緒に頭を下げてくれる『誰か』がいる組織って、実はすごく温かい場所なんじゃないかって」
水上のその言葉は、悠真の胸の奥に、静かに、けれど確かに響いた。
誰からも感謝されず、ただすり減っていくだけだと思っていた自分の役割。
『どっちの味方か』と問われ、誰の味方にもなりきれない自分を恥じていた。けれど、彼女の言う通りかもしれない。自分がそこで理不尽な怒声を浴びてクッションになっているからこそ、あの若手たちは致命傷を負わずに、今日も元気に文句を言えているのだ。
「……水上さんにそう言ってもらえると、今日一日、居酒屋で部下の愚痴をサンドバッグみたいに受け止めてきた甲斐がありましたよ」
悠真が顔を上げて微笑むと、水上もふわりと笑い返した。
「ふふ。全国の中間管理職を代表して、もっと胸を張ってください。長谷川さんのその見えない鎧のおかげで、守られてる若手が絶対いますから」
「ありがとうございます。少し、救われました」
悠真は、空になった微糖の缶コーヒーを軽く振った。
カラン、と中の残りが小さな音を立てる。
「さて、と。それじゃあ私は、残りの拭き上げをしてしまいますね」
「あっ、そうでした。私も早く鳥のフンを洗い流さないと」
水上は弾かれたように立ち上がり、自分のSUVへと向かっていった。
洗車機のコントロールパネルに小銭を投入する彼女の背中を見つめながら、悠真は自分のセダンのボディに広げたタオルを手にした。
昼間の社会で負った見えない傷を、それぞれが別の戦場から持ち寄り、この深夜の洗車場でそっと見せ合う。
解決策を提示するわけでもなく、ただ「お互い、しんどいですね」と認め合うだけの時間。
それだけで、こんなにも呼吸がしやすくなる。
バチバチッ! と、隣のスペースから激しい高圧洗浄機の水音が響き始めた。悠真は小さく笑みをこぼし、ピカピカのセダンをさらに磨き上げるために、タオルを滑らせ始めた。




