第39話 高圧洗浄機と、透明な鎧(3)
「便利なクッション材、ですか」
女性はブラックコーヒーの缶を見つめたまま、ふふっと息を漏らして笑った。
「でも、そういう見えないクッションがないと、会社とか社会っていう巨大な機械は、あっという間に摩擦でバキバキに壊れちゃうんでしょうね。……本当にお疲れ様です」
「そちらこそ。徹夜明けの理不尽な修正指示を乗り越えたこと、同じ社会人として心から敬意を表しますよ」
悠真がコーヒーの缶を軽く掲げると、彼女も「どうも」と缶をコツンと当ててきた。
深夜二時の自動販売機の前。名前も知らない大人同士の、ささやかな乾杯だった。
微糖コーヒーを飲み干し、空き缶をリサイクルボックスに放り込む。
ふと見ると、女性は自分の年代物のSUVを振り返り、再び深い、深い絶望のため息をついていた。
「……はぁ。撃つだけ撃って満足しましたけど、あの水滴、これから全部拭き上げるのかと思うと絶望的ですね。このまま走って風で飛ばそうかな」
「水垢になりますよ。特に濃い色の車は、後で後悔することになります」
「ですよねぇ……」
ぐったりと肩を落とす彼女を見て、悠真は小さく苦笑し、自分のセダンのトランクへと向かった。
洗車グッズが綺麗に整理された収納ボックスの中から、真新しい大判のマイクロファイバータオルを取り出す。そして、SUVの前で途方に暮れている彼女の元へ歩み寄り、それをスッと差し出した。
「これ、使ってください。吸水性が高いやつなんで、普通のタオルの半分の時間で終わりますよ」
「えっ、でも……」
「車に積んだままの予備なので、気にしないでください。同じ『理不尽な大人社会の被害者』への、ささやかなお見舞いみたいなものです」
悠真が言うと、女性は少しだけ目を丸くした後、ふわりと、この深夜の洗車場で初めての柔らかい笑顔を見せた。
「……ありがとうございます。遠慮なく、お見舞いされます」
女性がタオルを受け取った手元には、デザイナーらしく、絵の具かインクのような小さな汚れが微かに残っていた。
「私は水上です。水上 澪」
「長谷川です。長谷川悠真」
ただそれだけ。名刺を交換するわけでも、連絡先を聞くわけでもない。
昼間の社会のしがらみから逃れてきたこの場所で、それ以上の「繋がり」を持つことは、お互いにとって無粋だとわかっていた。
「それじゃあ、長谷川さん。タオルの恩は、次にお会いした時に缶コーヒーで返しますね」
「楽しみにしています。……水垢にならないうちに、早く拭いた方がいいですよ」
「うっ、厳しい」
水上がタオルの端を持ってSUVのボンネットに広げるのを見届け、悠真は自分のセダンの運転席に乗り込んだ。
ドアを閉めると、深夜の静寂がさらに一段階、深く車内を満たした。
エンジンをかける。ダッシュボードの時計は、午前二時十五分を指していた。
明日もまた、朝が来れば会社に行き、部下のフォローをして、上司の機嫌をうかがう「クッション材」としての日常が始まる。理不尽な現実は、何一つ解決していない。
けれど、ハンドルを握る悠真の手のひらには、不思議と確かな温もりが残っていた。
この理不尽で息苦しい社会の中で、傷ついているのは自分だけじゃない。
綺麗に拭き上げられたフロントガラス越しに、悠真は大きく息を吐き出した。そして、タオルと格闘している水上に軽くクラクションを鳴らして合図を送り、ゆっくりと洗車場を出た。
バイパスに出ると、深夜の澄んだ空気が窓の隙間から流れ込んでくる。
肩に重くのしかかっていた見えない鎧が、高圧洗浄機の水流で少しだけ洗い流されたように、悠真の心は昨日よりもずっと軽くなっていた。




