第38話 高圧洗浄機と、透明な鎧(2)
バシャッ、と。
隣のスペースから跳ねた水しぶきが、悠真の足元の濡れたアスファルトを叩いた。
「あっ……すみません!」
水音に負けないように張られた声に、悠真はタオルを動かす手を止めた。
隣を見ると、パーカー姿の女性が高圧洗浄機のノズルを慌てて下に向けて、こちらに軽く頭を下げていた。どうやら水圧のコントロールを誤って、フェンス越しに水を飛ばしてしまったらしい。
「いえ、大丈夫です。洗車場ですから」
悠真は短く答え、再びセダンのルーフを拭き始めた。
女性も「すみません」ともう一度小さく呟き、自分のSUVに向き直る。
激しい水音が再び響き始める中、悠真は手だけを動かしながら、ぼんやりと彼女の洗車風景を視界の端に捉えていた。
洗い方が、どう見ても雑だった。ボディの汚れを丁寧に落とすというよりは、ただひたすらに強い水流を車体にぶつけて、何かを「吹き飛ばそう」としているように見える。
(……同じだな)
悠真は自嘲気味に口角を上げた。
自分のセダンも、昨日洗ったばかりで元から汚れなんて一つもついていなかった。それでもここに来て、無意味に水を浴びせ、こうして無心で拭き上げている。
理不尽な上司の怒声。クライアントの冷たい視線。部下の無責任なため息。
昼間の社会で全身に浴びた「目に見えない汚れ」を洗い流すためには、これくらい激しい水音と、深夜の孤独が必要なのだ。
やがて、隣の洗車機からも終了のブザーが鳴り響き、辺りに再び静寂が降りてきた。
「ふぅ……」
女性がノズルを戻し、大きく肩で息をする音が聞こえる。
悠真は拭き上げを終え、濡れたタオルをバケツに放り込むと、敷地の隅にある自動販売機へと向かった。
小銭を入れ、冷たい微糖の缶コーヒーのボタンを押す。ガコン、と重い音を立てて落ちてきた缶を拾い上げ、プルタブを開けて一口飲んだ。
人工的な甘さとカフェインが、深夜二時の疲れた脳にじんわりと染み込んでいく。
ふと足音がして振り返ると、隣の女性も自販機に向かって歩いてくるところだった。
手には拭き上げ用のタオルを持っているが、彼女の車はまだほとんど濡れたままだ。どうやら、拭く前に力尽きてしまったらしい。
彼女も同じように小銭を入れ、ブラックコーヒーのボタンを押した。
取り出した缶を開け、その場で一口飲む。そして、水銀灯に照らされた悠真のピカピカのセダンと、彼の手元の缶コーヒーを交互に見つめ、ぽつりとこぼした。
「……綺麗な車ですね。全然、汚れてないみたいに見えますけど」
それは、深夜の洗車場という特殊な空間が言わせた、他愛のない、しかし少しだけ踏み込んだ言葉だった。
「ええ。昨日も洗ったばかりなので」
「昨日も?」
「はい。……まあ、車を洗いに来てるわけじゃないんでしょうね、多分」
悠真が自嘲するように言うと、女性は少しだけ目を丸くした後、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「わかります。私も今、車の汚れじゃなくて、今日の理不尽なクライアントの顔面めがけて水撃ってましたから」
「……それは、随分と物騒な洗車ですね」
「おかげですっきりしましたけど、拭き上げる体力が残ってないです」
女性は自分の年代物のSUVを振り返り、大げさにため息をついた。
「フリーランスのデザイナーなんですけどね。三回も徹夜で修正させられた挙句、『やっぱり最初の案で』って言われたんです、今日の夕方。もう、頭の中の血管が何本か切れましたよ」
「『やっぱり最初の案で』……それは、キツいですね」
悠真は、昼間の自分の姿を思い返していた。
部下の発注ミスを被り、クライアントの応接室でひたすら頭を下げていた自分。立場も職種も違うけれど、理不尽な大人社会の暴力に殴られ、ボロボロになってこの深夜の洗車場に逃げ込んできたという点では、二人は全く同じだった。
「会社員ですか?」
「ええ。中間管理職です。上からは数字を詰められ、下からは文句を言われ、取引先には頭を下げるだけの……便利なクッション材みたいなもんですよ」
自販機の微かな駆動音だけが響く中、見知らぬ大人二人は、冷たい缶コーヒーを握りしめたまま、静かに愚痴をこぼし合った。
名刺交換もしていない。名前も知らない。
けれど、この過剰に明るい水銀灯の下でだけは、昼間のように「立派な大人」の鎧を着る必要はなかった。




