第37話 高圧洗浄機と、透明な鎧(1)
バチバチバチッ、と。
鼓膜を叩くような激しい水音が、深夜一時のバイパス沿いに響き渡る。
高圧洗浄機のノズルから噴き出す水流が、グレーの無難なセダンのボディにぶつかり、白く細かい飛沫となって夜の空気に溶けていく。
水しぶきの冷たさが頬に当たっても、長谷川悠真(はせがわゆうま・32歳)はノズルを握る手を止めなかった。
(……俺は一体、何のために頭を下げてるんだろうな)
頭の中をぐるぐると回っているのは、今日の夕方、取引先の応接室で床に擦り付けるように下げた自分の頭の記憶だ。
部下の致命的な発注ミス。それをカバーするために、悠真は上司とともにクライアントの元へ走り、ひたすらに謝罪を繰り返した。「申し訳ありません」「すべてこちらの責任です」。まるで、心が完全に死んだ精巧なロボットのように。
32歳。若手と呼ばれる特権的な時期はとっくに過ぎ去り、かといって権力を持つほどのベテランでもない。上からは数字を詰められ、下からは「自分の仕事じゃありません」と不満をぶつけられる。
理不尽をすべて吸収する「中間管理職」という名のサンドバッグ。それが、今の悠真の社会における現在地だった。
『残り時間、一分です』
洗車機の無機質なアナウンスが響く。
悠真は足元のペダルを踏み込み、残った水圧をすべて使って、すでにピカピカになっているボンネットにさらに水を浴びせかけた。
深夜のコイン洗車場。
それは、悠真が見つけた、誰にも邪魔されない唯一の「シェルター」だった。
過剰に明るい水銀灯の光。濡れて黒く光るアスファルト。そして、すべてをかき消してくれる高圧洗浄機の轟音。
ここにいる間だけは、上司の怒声も、部下の冷めた視線も届かない。ただ無心で目の前の汚れ(実際にはもう汚れてなどいないのだが)を洗い流す行為だけが、ひどくすり減った悠真の心を、わずかに鎮めてくれた。
プーッ、と終了を知らせるブザーが鳴り、水流がふっと途絶える。
唐突に静寂が戻ってきた。遠くのバイパスを走る大型トラックの走行音だけが、低く響いている。
悠真はノズルを元の位置に戻し、大きく息を吐き出した。
濡れたセダンを拭き上げるためのタオルを取り出そうと、トランクを開けたその時だった。
ブルルルルッ、と。
少しガタのきた重いエンジン音を響かせて、一台の車が悠真の隣の洗車スペースに入ってきた。
目を向けると、塗装が少し剥げかけた、年代物の角ばったSUVだった。
こんな深夜に珍しいなと思いながら見ていると、運転席のドアが開き、一人の女性が降りてきた。
年齢は悠真と同じくらいか、少し下かもしれない。
ざっくりとした大きめのパーカーに、色落ちしたジーンズ。髪は無造作に後ろで束ねられている。
彼女は車から降りるなり、大きく伸びをして、それから「ふぅ」と深い、深いため息を吐いた。
その横顔は、水銀灯の冷たい光の下で、ひどく疲れ切っているように見えた。
まるで、ついさっきまでの自分自身を鏡で客観的に見せられているような、どうしようもない大人の疲労感。
女性は小銭入れから硬貨を取り出し、洗車機の機械に投入した。
『標準洗車コースです』というアナウンスとともに、再びけたたましい水音が深夜の洗車場に響き始める。
悠真はタオルを持ったまま、飛沫を上げて車を洗い始めた彼女の姿を、ぼんやりと見つめていた。
彼女もまた、この轟音と水しぶきの中に、洗い流せない「現実」を隠しに来たのだろうか。
深夜一時半。
煌々と照らす水銀灯の下で、見知らぬ二人の大人がそれぞれの車に向かって、無言で水を浴びせ続けていた。




