第36話 朝焼けと、最後のレシート(3)
レジに向かい、湊は二人分の伝票を店員に手渡した。
「お会計、深夜料金を含めまして1,320円になります」
いつもと変わらない、機械的な店員の声。湊は財布から千円札を二枚出し、お釣りとともに一枚のレシートを受け取る。
『ドリンクバー 2』
『山盛りフライドポテト 1』
そこに印字された飾り気のない文字は、この一ヶ月間、大人になりきれない二人がこの場所で過ごしたモラトリアムの、確かな証明書だった。
湊はそのレシートをゴミ箱へは捨てず、二つに折りたたんで、財布のカード入れの奥へとそっとしまった。
自動ドアが開き、外へ出る。
「うわっ、やっぱり朝は冷えるね」
咲がブルッと肩をすくめ、コートの襟を立てた。
十一月終わりの冷たく澄んだ空気が、深夜のファミレス特有の油と甘い匂いに包まれていた二人の肺を、冷ややかに、しかし心地よく満たしていく。
見上げると、空は完全に白み、東のビルの隙間から眩しい朝日が顔を出そうとしていた。
国道を走る車のスピードは上がり、遠くからは始発の電車が鉄橋を渡る鈍い音が響いてくる。世界が、本格的に目を覚まし始めていた。
もう、どこにも逃げ場はない。完璧な「現実の朝」が、そこにはあった。
「それじゃあ、私、荷物取って駅に向かうね」
咲が、湊の方へ向き直って言った。
その顔には、もう夜の闇に怯える迷子はいない。自分の足で立ち、自分の人生を選び取ろうとする、大人の女性の顔があった。
「ああ。気をつけて行けよ。……東京でも、戦士として頑張れ」
「うん。藤井くんも、村人Aの逆襲、期待してるから」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなくふっと笑い合った。
悲壮感はない。寂しさも、以前ほどではない。これは別れではなく、停滞していた二人の時間が再び動き出しただけの、前向きな「出発」なのだ。
咲が背を向け、駅の方向へと歩き出そうとしたその時。
「高坂!」
湊の声に、咲が振り返る。
朝日を背に受けた彼女の姿は、淡い光に包まれて、ひどく綺麗に見えた。
湊は、かつてないほど真っ直ぐに彼女の目を見て、少しだけ声を張って告げた。
「次に会う時は……深夜のファミレスじゃなくて、明るい真昼間にしよう。どっちがよりマシな大人になれたか、昼間の太陽の下で報告会だ」
それは、ドリンクバーの妖怪ではなく、現実を生きる一人の大人としての、不器用な約束だった。
咲は一瞬だけ目を丸くし、それから、この一ヶ月間で一番の、太陽みたいに眩しい笑顔を弾けさせた。
「うんっ! 絶対に約束ね!」
大きく手を振り返し、咲は今度こそ真っ直ぐに、自分の明日へと歩き出した。
湊は彼女の背中が角を曲がって見えなくなるまで見送り、それから、両手を空に向かって突き出して、大きく背伸びをした。
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、頭の奥までスッキリと冴え渡っていく気がした。
財布の中にある、最後のレシート。
あれを見るたびに、きっとこのモラトリアムの夜を思い出すだろう。
息苦しい現実に押しつぶされそうになった時は、あのメロンソーダの甘さとポテトの塩気を思い出して、また一歩踏み出せばいい。
「さて、と」
湊は、自分のアパートへと続く道を歩き始めた。
足取りは、昨日よりもずっと軽く、確かなリズムを刻んでいる。
帰ってシャワーを浴びたら、窮屈なスーツを着て、会社に行こう。そして、書きかけの提案書を最後まで書き上げるのだ。
昇りきった朝日が、村人Aからのジョブチェンジを決意した青年の背中を、今はただ優しく、力強く照らし出していた。




