第35話 朝焼けと、最後のレシート(2)
「お待たせいたしました。山盛りフライドポテトでございます」
深夜の静寂を破るように、店員がいつもの大皿をテーブルの中央にコトリと置いた。
立ち昇るジャンクな油の匂い。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく吹き出した。
「やっぱり、最後はこれがないとね」
「ああ。これを食べきったら、俺たちのモラトリアムも終了だ」
咲が一番長くてカリカリに揚がったポテトをひょいっとつまみ上げ、湊もそれに続く。
口の中に広がる強烈な塩気。この一ヶ月、何度この味に救われ、現実逃避の言い訳にしてきたことだろう。
しかし今夜、ポテトを挟んで交わされる会話は、以前のような後ろ向きな愚痴ではなかった。
「東京での面接、最初はウェブ系のベンチャーを受けてみるつもりなんだ。今まで事務職しかやってこなかったから厳しいかもしれないけど、とりあえず飛び込んでみようと思って」
「いいじゃん、戦士っぽくて。俺の業務改善案も、まずは課長を説得するためのデータ集めからだ。エクセル入力のプロフェッショナルとしての意地を見せてやるよ」
過剰な蛍光灯の下、二人はこれからの「明日」について語り合った。
それは、決して輝かしいサクセスストーリーではない。29歳という、若くもなければベテランでもない中途半端な年齢から始める、泥臭くて手探りな一歩だ。
失敗するかもしれない。笑われるかもしれない。それでも、立ち止まって震えていた昨日よりは、ずっとマシだ。
やがて、山盛りだったポテトの皿が空になり、ケチャップの赤い跡だけが残った。
ふと窓の外に目を向けると、あんなに分厚かった夜の闇が、薄い藍色へと溶け出し始めていた。
午前四時半。
前回、この白み始めた空を見た時、二人は「朝が来なきゃいいのに」と怯えていた。容赦なく押し寄せる現実に押しつぶされそうで、いつまでもドリンクバーの妖怪でいたいと願っていた。
けれど不思議なことに、今の湊の目に映るその淡いブルーの空は、とても澄み切って綺麗に見えた。
「……夜が明けるね」
咲が、窓の外を見つめたまま静かに呟いた。
その横顔は、高校時代に教室で見ていた無邪気なものとも、一ヶ月前にここで再会した時の傷ついたものとも違う。自分の足で立ち上がり、前を向いて歩こうとする、大人の女性の凛とした美しさがあった。
「うん。……綺麗な朝だ」
湊の言葉に、咲はゆっくりと振り返り、優しく微笑んだ。
「藤井くん。あの夜、私に声をかけてくれて、本当にありがとう。藤井くんが一緒にポテトを食べて、一緒に朝を怖がってくれたから……私、もう一度歩き出そうって思えたんだよ」
「よせよ。俺の方こそ、お前がいたから、もう一度自分の人生の『村人A』からやり直そうって思えたんだ。……お互い様だろ」
照れ隠しに空になったグラスを傾けようとしたが、氷はとっくに溶けきっていて、もう一滴も残っていなかった。
「おかわり、行く?」
咲が立ち上がろうとする。今までなら、ここで迷わず新しい飲み物を注ぎ、もう少しだけ夜を引き延ばそうとしていたはずだ。
けれど、湊はゆっくりと首を横に振った。
「いや、もういい」
湊はグラスをテーブルの端に置き、真っ直ぐに咲の目を見た。
「もう、夜を長引かせるためのドリンクバーは必要ない。……俺たち、ちゃんと朝を迎えられるから」
その言葉の真意を受け取った咲は、一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて「うん」と力強く頷いた。彼女もまた、自分のグラスを湊のグラスの隣へと静かに並べて置いた。
店内には、いつもと変わらない有線放送のヒットチャートが流れている。
けれど、二人の間の時間は、確実に前へと進んでいた。
「……そろそろ、行くか」
湊が伝票を手に取って立ち上がる。
窓の外は、藍色から少しずつオレンジ色が混ざり始め、新しい一日の始まりを告げようとしていた。深夜のファミレスという魔法の時間が、今、完全に終わろうとしていた。




