第34話 朝焼けと、最後のレシート(1)
咲が「東京へ行く」と宣言したあの朝から、一週間が経った。
その間、二人が深夜のファミレスで落ち合うことは一度もなかった。咲は東京での面接の準備や、引っ越しに向けた身辺整理で忙しく飛び回っていたし、湊もまた、相変わらずのエクセル入力と上司の機嫌取りに忙殺される日々を送っていた。
しかし、湊の中の「何か」は、確実に変わり始めていた。
金曜日の午後十時。
いつもなら、言われた数字を入力し終えた時点で思考を停止し、そそくさと退勤の準備をするところだ。だが今日の湊は、パソコンの画面に表示された業務改善の社内公募案を、食い入るように見つめていた。
(……もし、今のシステムの入力フローを自動化できたら、無駄な残業は減るんじゃないか)
それは、これまでの「村人A」として波風を立てずに生きてきた湊なら、絶対に手を出さない面倒な領域だった。提案したところで、上司から「余計なことをするな」と一蹴されるかもしれない。
けれど、自ら退路を断ち、傷つくことを覚悟で「自分の現実」へと歩き出した咲の背中が、湊の脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
『いつまでも、妖怪になんてなれないよね』
そうだ。ファミレスのドリンクバーにしがみついていても、朝は必ず来る。
同じ朝を迎えるなら、何もしないで怯えるのではなく、自分の足で一歩でも前へ進んでみたい。劇的な変化じゃなくてもいい。ただの事務員から、少しだけ「自分の意志」を持った村人Aへと、レベルアップするために。
湊は深呼吸をし、意を決して提案書のフォーマットをダウンロードした。
日付が変わる頃、湊はオフィスを出て、冷たい夜風の中を歩いていた。
足取りは、不思議と軽かった。提案書はまだ書きかけだが、自分の中で何かが少しだけ前に進んだ確かな手応えがあった。
スマートフォンの画面を開き、メッセージアプリを立ち上げる。
宛先は、高坂咲。彼女が東京へ発つのは、明日の朝だ。
『今日、どう? 最後にもう一度』
短いメッセージを送信して数分後。
画面に、見慣れたスタンプと共に返信が届いた。
『もちろん。いつもの席で待ってる』
午前一時半。
国道沿いに輝く赤と黄色のネオンサインは、今日も変わらず、夜の闇の中で温かい光を放っていた。
自動ドアをくぐり、いつもの窓際のボックス席へ向かう。そこには、すでにメロンソーダとアイスティーのグラスを二つ並べて待っている咲の姿があった。
「お疲れ、藤井くん」
「ああ。……明日、朝早いんだろ? こんな時間まで呼び出して悪かったな」
湊が向かいの席に腰を下ろすと、咲は「全然」と笑って首を振った。
その表情には、初めてここで再会した夜のような暗い疲労感も、焦燥感もない。東京という新しい戦場へ向かうための、静かな覚悟と希望が満ちていた。
「荷造り、終わったのか?」
「うん。段ボール三つだけだから、あっという間だったよ。明日の朝九時の新幹線に乗る」
咲はそう言って、ストローでアイスティーをくるくるとかき混ぜた。
「なんか、不思議だね。この一ヶ月、ここで藤井くんと山ほどポテト食べて、ドリンクバー飲んで、たくさん愚痴ったのに……いざ最後だと思うと、急に名残惜しくなっちゃう」
過剰なほど明るい蛍光灯。ハンバーグの匂い。深夜特有の静寂。
二人にとって、ここは息苦しい現実から逃げ込むための、かけがえのない「シェルター」だった。
「……高坂」
「ん?」
「俺も、少しだけ変わろうと思う」
湊は、目の前にあるメロンソーダのグラスを真っ直ぐに見つめながら、静かに告げた。
「転職とか、そんなでかい話じゃないけど。会社でずっと見て見ぬふりをしてたことに、少し手を出してみようと思って、今日、初めて提案書を書き始めたんだ」
「えっ」
「お前が前を向いて歩き出したのを見てたら、俺だけここで『変わらない言い訳』をしてるのが、すごくダサく思えてきてさ」
照れくさくて、湊は頭を掻きながら自嘲気味に笑った。
咲は驚いたように目を丸くした後、ふわりと、心底嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「そっか。……そっか! 藤井くんも、ついに村人Aからジョブチェンジするんだね!」
「まだレベル1だけどな。スライムに負けるかもしれない」
「大丈夫だよ。私たち、このファミレスで十分すぎるくらい、作戦会議したんだから」
カチン、と。
二人はグラスを軽く打ち合わせた。
深夜のファミレス。時計の針は午前二時を回ったところだった。
けれど、今夜の二人はもう「朝が来ること」を恐れてはいなかった。この場所はもう、現実から目を背けるためのシェルターではなく、新しい朝を迎えるための「待合室」へと変わっていたのだ。




