第32話 山盛りポテトと、29歳のリアル(2)
「妖怪ドリンクバーおばけ」の冗談でひとしきり笑い合った後、テーブルには再び、深夜特有の静寂が降りてきた。
山盛りだったポテトの皿はすっかり空になり、湊のグラスの氷も溶けきって水滴を落としている。
ふと窓の外に目をやると、あんなに分厚く世界を覆っていた真っ暗な闇が、ほんの少しだけ薄らぎ始めているのに気づいた。
午前四時半。
モラトリアムの時間が終わりを告げる、残酷な境界線だ。
ブーッ、ブーッ。
静まり返ったボックス席に、不意に無機質なバイブレーションの音が響いた。
テーブルの上に伏せて置かれていた咲のスマートフォンが、チカチカと画面を光らせている。
咲はビクッと肩を揺らし、恐る恐る画面を覗き込んだ。その瞬間、彼女の顔から、先ほどまでの無邪気な笑みがスッと消え失せた。
「……お母さん、から?」
湊が控えめに尋ねると、咲は力なくコクリと頷いた。
「うん。あと、元彼からも。LINE、何件も溜まってる。『式場へのキャンセル料の振り込み、どうするのか』『今後のこと、ちゃんと話し合おう』って」
先ほどまで「キャリアの軸がない」と笑い飛ばしていた彼女の顔に、再びあの初日の夜と同じ、息苦しそうな焦燥感が張り付く。
スマートフォンという小さな長方形の箱は、どれだけファミレスの奥深くに逃げ込んでも、容赦なく「現実の社会」と彼女を繋いでしまう。キャンセル料の支払い、親族への謝罪、ゼロからの仕事探し。逃げ出した彼女には、清算しなければならない現実が山積みになっているのだ。
咲はスマホの画面を再び伏せ、両手で顔を覆った。
「……いつまでも、妖怪になんてなれないよね。朝が来たら、ちゃんと現実に向き合わなきゃいけないんだもん」
その震える声を聞いて、湊も自分の手元のスマートフォンに目を落とした。
画面には「04:45」の文字。あと二時間もすれば、一度アパートに帰ってシャワーを浴び、窮屈なスーツを着て、満員電車に揺られなければならない。
待っているのは、代わり映えのないエクセル入力と、理不尽な上司の機嫌取り。何も変わらない、空っぽな『村人A』の日常だ。
「……朝、来なきゃいいのにな」
湊の口から、子供のような本音がポロリとこぼれた。
ファミレスの過剰な照明が、白み始めた外の光と混ざり合い、少しだけ白々しく感じられるようになってきた。
深夜という名の麻酔が切れていく。山盛りポテトをシェアして昔話で笑い合った時間は、しょせん一時的な鎮痛剤でしかないのだと、二人は痛いほど自覚し始めていた。
どんなに居心地の良いシェルターに引きこもっていても、時計の針を止めることはできない。大人になりきれない二人のもとにも、容赦なく「29歳の現実」という朝はやってくるのだ。




