第31話 山盛りポテトと、29歳のリアル(1)
あの日から、深夜のファミレス通いは、湊と咲の間で暗黙の「日課」のようなものになっていた。
週末の夜はもちろん、週の半ばでどうしようもなく息が詰まった夜。
どちらからともなく「今日、どう?」と短いメッセージを送り合い、午前一時にあのネオンサインの下で落ち合う。
「あ、ちょっと藤井くん! 今、一番長くてカリカリのやつ取ったでしょ!」
「早い者勝ちだろ。お前はさっきからケチャップつけすぎなんだよ」
テーブルの真ん中に鎮座しているのは、深夜のファミレスにおける絶対的な主役、『山盛りフライドポテト』だ。
二人とも、もはや若くない胃袋だと自覚しつつも、深夜の脂と塩分の誘惑には抗えない。フォークは使わず、手で直接つまんで口に放り込み、ドリンクバーの飲み物で流し込む。
高校生のようなジャンクな振る舞い。けれど、二人の口からこぼれ落ちるのは、どうしようもなく泥臭い「29歳のリアル」だった。
「……でさ、今日の昼間、ついにエージェントから言われちゃったんだよね。『高坂さんは、キャリアの軸がブレています』って」
咲は二杯目のアイスティーのストローを噛みながら、盛大にため息を吐いた。
「そりゃブレるよ! こっちは今まで、良き妻になるための軸に合わせて生きてきたんだから。いきなり一人で戦場に放り出されて、キャリアの軸だの、5年後のビジョンだの聞かれても、そんなのわかるわけないじゃん」
「まあな。面接官も、元婚約者にインタビューした方が早いんじゃないかって話だよな」
「ちょっと、笑い事じゃないんだからね。ほんと、世の中の『ちゃんとしてる大人』たちは、どうやってあんな立派な自己PRをひねり出してるわけ?」
咲の愚痴に、湊は「適当に嘘ついてるだけだろ」と笑いながら、フライドポテトをもう一本口に放り込んだ。
「俺なんて、今だに今の会社の志望動機すら思い出せないからな。毎日、右から来たエクセルの数字を左のシステムに入力して、上司の機嫌を損ねないように笑うだけ。5年後のビジョンなんて『エクセルのショートカットキーをあと三つ覚える』くらいしかないぞ」
「レベル低っ! でも、藤井くんのそういうポンコツなところ聞くと、なんだかすごく安心する」
「お互い様だろ、逃亡戦士」
過剰に明るい蛍光灯の下。
ポテトを巡って小競り合いをしながら、情けない本音を吐き出し合う。
昼間の社会では、誰もが「ちゃんとした大人」の仮面を被って、必死に取り繕って生きている。弱音を吐けば「自己責任」と言われ、立ち止まれば「置いていかれる」という強迫観念に追われる毎日。
けれど、この午前二時のファミレスのボックス席だけは違った。
ここでは、キャリアの軸がなくても、エクセルの入力しかできなくても、誰も自分たちを責めない。
窓の外の真っ暗な闇が、昼間の息苦しい現実から二人を完全に隔離してくれている。ドリンクバーの機械が鳴る電子音と、有線放送から流れるヒットチャートのメロディだけが、この小さなシェルターのBGMだった。
「ねえ、藤井くん」
「ん?」
「もしさ、このまま私がずっと就職できなくて、藤井くんもずっとエクセル入力の村人Aのままだったら……二人でこのファミレスに住み着く妖怪になろうか」
「なんだよそれ。妖怪ドリンクバーおばけ、とかか?」
「そうそう。夜な夜な現れては、山盛りポテトのカリカリの部分だけを奪っていくの」
咲がふざけて笑うと、湊もつられて吹き出した。
本当に、そんな妖怪になれたらどんなに楽だろう。
このまま時間が止まって、永遠に朝が来なければいい。
ポテトの塩気とメロンソーダの甘さで胃を満たしながら、湊は心の底からそう願っていた。
しかし、時間は決して止まってはくれない。
永遠に続くと思われたモラトリアムの夜にも、やがて冷たい現実が忍び寄ろうとしていた。




