第30話 ドリンクバーと、時計の針(3)
「おかわり、行く?」
空になったグラスの氷をカラカラと揺らしながら、咲が立ち上がる。
「ああ。俺も行く」
湊も席を立ち、二人並んでドリンクバーの機械の前へ向かった。
湊がブレンドコーヒーのボタンを押して抽出を待っていると、隣で咲が、グラスにオレンジジュースとジンジャーエールを半分ずつ混ぜるという、高校生のような無茶な飲み物を作っていた。
「何それ。絶対美味くないだろ」
「失礼な。これがあの時、私と軽音部の女子たちで開発した『ハッピー・サンライズ』だよ。一口飲む?」
「遠慮しとく。胃がもたれそうだ」
湊が苦笑いすると、咲は「29歳はこれだから」と小さく舌を出した。
席に戻ると、話題は自然と昔話へと移っていった。
文化祭で大失敗したクラス劇の話、修学旅行で先生の目を盗んでトランプをした夜の話。そして、あの頃は「29歳」なんて、もっとずっと完成された、立派な大人だと思い込んでいたという話。
仕事の愚痴でも、結婚へのプレッシャーでもない、ただの無責任な昔話。
それは、今の二人にとって何よりも心地よい麻酔だった。
「なんだか、不思議だね」
三杯目の『ハッピー・サンライズ』を飲み干し、咲がふうっと息を吐く。
「数時間前まで、親からのLINEを見るのも怖くて、明日の朝が来るのがあんなに嫌だったのに。ここでこうして藤井くんと話してると、明日なんて永遠に来ないような気がしてくる」
その言葉に、湊も深く頷いた。
過剰なほど明るい蛍光灯。窓の外をたまに通り過ぎていく、大型トラックのヘッドライト。ハンバーグのソースと、ドリンクバーの甘い匂いが混ざった空気。
ここには、上司の機嫌も、出世のプレッシャーも、結婚という人生のタスクもない。ただ「何者でもない自分」でいられる、空白の時間だけが存在していた。
「なあ、高坂」
湊は温かいコーヒーカップを両手で包み込みながら、少しだけ躊躇って、口を開いた。
「お互い、ちゃんとした『29歳の大人』になれるまで……たまにここで、現実逃避しないか」
それは、かつての眩しかった彼女には絶対に言えなかったであろう、情けなくて、後ろ向きな提案だった。
けれど、今の咲は目を丸くして驚いた後、ふわりと、この夜で一番の自然な笑顔を見せた。
「うん。……私、まだしばらくは夜、一人じゃ眠れそうにないから。藤井くんさえよければ、付き合ってよ」
「ああ。どうせ俺も、休日は無駄に寝てるだけだからな」
窓の外を見ると、空はまだインクを流したように真っ暗で、朝が来る気配は微塵もない。
劇的に人生が変わったわけではない。このファミレスを出て明日になれば、また息苦しい現実が二人を待っている。村人Aのままの日常と、パーティーから逃げ出した戦士の罪悪感は、そう簡単には消えないだろう。
けれど、焦燥感と孤独に押しつぶされそうだった湊の心には、ほんの少しだけ温かい『余白』が生まれていた。
午前三時のファミリーレストラン。
それは、大人になりきれない僕たちが見つけた、深夜のささやかな避難所だった。




