第29話 ドリンクバーと、時計の針(2)
「……とりあえず、お互いの残念な29歳に、乾杯しよっか」
深夜二時半のファミレス。
窓際のボックス席で向かい合った湊と咲は、緑色のメロンソーダと、すっかり氷の溶けたアイスティーのグラスを軽く打ち合わせた。
カチン、と安っぽいプラスチックのグラスが鳴る。
「まさか、こんな時間、こんな場所で藤井くんに再会するなんて思わなかったよ。しかも、結婚式の帰り?」
「ああ。大学の同期のやつ。……まあ、見事に俺だけ取り残されてる感があって、まっすぐ家に帰る気になれなくてさ」
湊が自嘲気味に笑いながらネクタイを外すと、咲も「わかる」と深く頷きながらストローを咥えた。
高校時代の彼女は、いつも自信に満ちていて、キラキラと輝いていた。誰からも好かれ、間違いなく「順風満帆な大人」になるだろうと誰もが疑わなかった存在。
しかし今、目の前で猫背になってアイスティーを啜る彼女の目元には、隠しきれない疲労の隈が落ちている。
「高坂の方は? パソコンなんか広げて、仕事の持ち帰りか?」
湊がテーブルの端に追いやられたノートパソコンに視線を向けると、咲は力なく首を振った。
「ううん。仕事、辞めちゃった。ついでに言うと、来月するはずだった結婚も、全部ナシにして地元に逃げ帰ってきたところ」
「えっ……結婚、破棄したのか?」
「うん。最低だよね」
咲はそう言って、グラスの表面についた水滴を指先でなぞった。
「長年付き合ってた彼氏で、優しかったし、親も喜んでたし。このまま結婚して、家庭に入るのが『正解』なんだって、自分に言い聞かせてたんだけど……いざ式が近づいてきたら、急に息ができなくなっちゃって」
私は本当に、このまま誰かの奥さんになって、自分の人生を終わらせていいのかな。
マリッジブルーという言葉で片付けるには、あまりにも重すぎる「自分のキャリアとアイデンティティ」への強烈な未練。結局、彼女はすべてを放り出して逃げ出す道を選んでしまったのだという。
「それで、とりあえず再就職先を探さなきゃって思ってパソコン開いてたんだけど……求人サイト見てたら、私って何の特別なスキルもない、ただの29歳の無職なんだなって突きつけられて、完全にフリーズしてた」
咲は自嘲するようにフッと笑い、ノートパソコンの画面をパタンと閉じた。
「高校の時はさ、自分は何者にでもなれるって、本気で思ってたのになぁ」
「……奇遇だな。俺もさっき、結婚式の帰りにまったく同じこと考えてた」
湊は、メロンソーダの強烈な甘さを喉に流し込みながら、ぽつりとこぼした。
「周りのやつらが、主任になったとか、家を買ったとか、どんどん人生のステージを進めていくのに、俺だけがずっと『村人A』のまま立ってる気分なんだよ。毎日同じ仕事して、休日は寝るだけで……このまま30代になって、おじさんになっていくのかと思うと、すごく怖い」
情けない本音だった。同窓会で会えば、適当に見栄を張って隠してしまうような、薄暗いコンプレックス。
けれど、この深夜のファミレスという非日常の空間と、同じように現実に打ちのめされている彼女の前では、不思議と素直に言葉にすることができた。
「村人Aかぁ。じゃあ、私はさしずめ、途中でパーティーから逃げ出した役立たずの戦士ってとこかな」
咲がクスクスと笑う。
それに釣られて、湊も小さく吹き出した。
「なんだそれ。クソゲーすぎるだろ、その人生」
「ほんとだよ。誰かリセットボタン押してほしい」
過剰に明るい蛍光灯の下。深夜の静寂に、二人だけのくぐもった笑い声が溶けていく。
お互いに、ちっとも笑い事ではない、立派な大人の挫折だ。
けれど、自分と同じように「前に進めていない」人間がここにいるという事実が、湊の張り詰めていた心を、嘘のように軽くしてくれた。
ドリンクバーの機械が発する低い駆動音と、遠くで聞こえるトラックの走行音。
時計の針は午前三時を回ろうとしている。
この閉ざされた空間の中だけで、二人の時間は、何者でもなかったあの高校時代の頃へと静かに巻き戻っていくようだった。




