第28話 ドリンクバーと、時計の針(1)
週末の終電をとっくに過ぎた、午前二時。
ネクタイを緩めた窮屈なスーツ姿で、藤井湊は深夜の国道沿いを一人、とぼとぼと歩いていた。
数時間前まで、大学時代の友人の結婚式、そして三次会まで続く長いお祝いの席に参加していた。
「次は湊の番だな」「お前、仕事はどうなの? 俺、今度主任に上がってさ」
アルコールと一緒に浴びせられた友人たちの無邪気な言葉が、冷たい夜風に吹かれた今も、耳の奥にねっとりとこびりついている。
心から祝う気持ちは嘘じゃない。けれど、周囲が確実に「次のステージ」へと駒を進めていく中で、自分だけがスタートラインから一歩も動けていないような、強烈な焦燥感と虚無感。
29歳。中堅メーカーの営業事務として働き始めて数年。仕事の要領は覚えたが、そこにやりがいや情熱があるわけでもなく、休日はただ寝て過ごすだけ。
何者かになれると思っていた20代は、何も成し遂げられないまま、手のひらから砂のようにこぼれ落ちていこうとしていた。
(……帰りたくないな)
暗くて狭い、誰も待っていない一人暮らしのワンルーム。あそこに帰って、一人でスーツを脱ぐ自分を想像するだけで、息が詰まりそうだった。
ふと顔を上げると、国道の向こう側に煌々と輝く、見慣れた赤と黄色のネオンサインが目に入った。
24時間営業のファミリーレストラン。
吸い寄せられるように横断歩道を渡り、湊は自動ドアをくぐった。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
深夜のファミレスは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
過剰なほど明るい蛍光灯の下、客の姿はまばらだ。仮眠を取っている長距離トラックの運転手、小声で話し込む大学生のグループ。
ハンバーグと揚げ油の匂いが染み付いたその空間は、時間が止まっているかのように穏やかで、今の湊にとってはたまらなく居心地が良かった。
窓際のボックス席に腰を下ろし、店員が持ってきたタブレットで「ドリンクバー単品」だけを注文する。
スーツのジャケットを脱いで席を立ち、ドリンクバーのコーナーへと向かった。
機械のボタンを押し、グラスに緑色のメロンソーダを注ぐ。炭酸が弾けるパチパチという音だけが、やけに鮮明に鼓膜を叩いた。
グラスを持って席に戻ろうとした時、通路を挟んで斜め向かいの席にいる人物がふと目に留まった。
テーブルの上に広げられたノートパソコン。その横に積まれた数冊の分厚いビジネス書。
女性はパソコンの画面を前に、完全に力尽きたようにテーブルに突っ伏していた。傍らには、すっかり氷の溶けたアイスティーのグラスが置かれている。
こんな深夜に、ファミレスで仕事の行き詰まりだろうか。
他人事とは思えない疲労感に満ちたその背中を、湊は何気なく見つめてしまった。
その時、女性が「うーん」と小さく呻きながら、顔を上げた。
乱れた髪の間から覗いた横顔。
目は虚ろで、ひどく疲れた表情をしていたが、湊の脳裏に、10年前の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
「……え?」
思わず声が漏れた。
それに気づいた女性が、ゆっくりと湊の方へ視線を向ける。
目が合い、数秒の静寂が落ちる。彼女の目も、次第に驚きに見開かれていった。
「藤井……くん?」
「高坂……? 高坂咲、か?」
高校時代。いつもクラスの中心にいて、文化祭でも体育祭でも誰より目立って笑っていた、あの高坂咲。
10年ぶりに再会した彼女は、かつての眩しいオーラをすっかり鳴りを潜め、湊と同じように「現実に疲れ果てた29歳の大人」の顔をして、深夜のファミレスに座っていた。




