第26話 夜明けのクリームソーダ(2)
大和は、青白い光を放つモニターを静かに見つめた。
画面には、上司から送られてきた理不尽な修正指示のテキストがびっしりと並んでいる。今までの大和なら、心を無にしてその指示通りにキーボードを叩き、朝まで絶望的な作業を続けていただろう。
しかし今、大和の右手はマウスを握り、すべてのテキストをドラッグすると、躊躇うことなく『削除』キーを叩きターンッ!と強い音を立てた。
画面から、赤い文字がすべて消え去る。
大和は社内チャットツールを開き、先ほど帰宅したばかりの上司のアイコンに向かって、短いメッセージを打ち込んだ。
『指示された修正はやりません。
明日付で、退職の手続きをお願いします。今までお世話になりました。』
送信ボタンを押す。
たったそれだけのことで、今まで大和の首を締め付けていた見えない鎖が、嘘のようにボロボロと崩れ落ちていくのがわかった。
心臓が、バクバクと大きな音を立てて波打っている。血液が全身を巡り、数ヶ月ぶりに自分が「生きている」ことを実感していた。
チャットの既読がつく前に、大和はノートパソコンの電源を強制的に落とした。
「……よし」
大和はデスクに座り直し、コースターが挟まっていた黒いノートの真新しいページを開いた。
ボールペンを握る手に、強い力がこもる。
もう、自己満足の綺麗なポエムは書かない。
言葉で現実のブルドーザーは止められないかもしれない。けれど、彼女の『明日からの現実』を、自分の企画力で新しく作り出すことならできるはずだ。
ターゲットはただ一人、七瀬雫。
目的は、彼女から奪われた『ポラリス』という居場所の再構築。
大和のペンは、かつてないほどのスピードで白紙の上を滑っていった。
店舗という固定費や場所に縛られない、新しいビジネスモデル。コンセプト、ターゲット層の再設定、そして、その新しい船出を飾るためのたった一つのキャッチコピー。
頭の中に散らかっていた点と点が繋がり、一つの明確な『企画』として形を成していく。これこそが、大和がずっとやりたかった本当の仕事だった。
「……できた」
三十分後。インクで真っ黒になったページを見つめ、大和は荒い息を吐き出した。
時計の針は、午前零時を回っている。
大和はノートをスーツの胸ポケットにねじ込むと、ビジネスバッグも、会社支給のスマホもすべてデスクの上に置き去りにして、オフィスを飛び出した。
深夜のオフィスビルを出ると、あの日、初めてポラリスを見つけた夜と同じように、冷たい雨がアスファルトを濡らしていた。
スーツ一丁の体に、十一月終わりの雨風が容赦なく吹き付ける。
けれど、大和は立ち止まらなかった。
「はぁっ、はぁっ……!」
ネクタイをむしり取り、濡れた路面を蹴って、深夜の繁華街を全力で駆け抜ける。
客引きの声も、すれ違う酔っ払いの怪訝な視線も、今の彼にはまったく届かない。
息が上がり、肺が悲鳴を上げている。冷たい雨が頬を打ちつけ、革靴の中には水が染み込んでいる。ひどく惨めな姿のはずなのに、大和の心は今まで生きてきたどの瞬間よりも熱く、澄み切っていた。
(間に合え……! まだ、閉めるな!)
終わってしまった夢を嘆くためじゃない。
これから、自分たちの手で新しい現実を作るために走るんだ。
都市開発という大人の事情で奪われるなら、何度でも別のやり方で作り直せばいい。彼女が淹れるあの温かいコーヒーと、理不尽な現実に傷ついた大人を匿ってくれる優しい空間さえあれば、そこは間違いなく『ポラリス』なのだから。
雨の匂いと、ネオンの光が流れていく。
大和は濡れた前髪を乱暴に拭い、あの見慣れた薄暗い路地裏を目指して、ただひたすらに深夜の街を走り続けた。




