第25話 夜明けのクリームソーダ(1)
あの絶望的な朝から、三週間が経った。
『ポラリス』が閉店を迎える、十一月の最終週。大和の心は、完全に死んでいた。
「結城、なんだこのポンコツな企画は! 小学生の作文か! やり直し!」
「はい、申し訳ありません」
オフィスのフロアに上司の怒声が響き渡るが、大和の感情はピクリとも動かなかった。ただ機械的に頭を下げ、モニターに向かって虚無のテキストを打ち込むだけ。
理不尽なダメ出し、終わりの見えない深夜残業、責任の押し付け合い。ブラック企業という名の巨大な胃袋の中で、大和という人間は完全に消化され、ただの従順な歯車へと成り果てていた。
金曜日の夜が来ても、もう足が路地裏へ向かうことはない。
あの琥珀色のクリームソーダも、彼女の優しい微笑みも、しょせん理不尽な大人の社会においては何の役にも立たない、ただの甘い幻だったのだ。
あの日以来、大和は胸のポケットに入れていた黒い企画ノートを、デスクの一番下の引き出しの奥深くに封印していた。夢を見れば見るほど、現実とのギャップに苦しむだけだ。だったら最初から、何も見ない、何も感じない方がずっと楽に生きられる。
そしてやってきた、ポラリス閉店当日の金曜日。
午後十一時。オフィスには大和と、数人の疲れ果てた社員だけが残っていた。
「結城、この修正、明日の朝までに全部終わらせとけよ。月曜に俺がチェックするから」
上司がコートを羽織りながら、冷酷に言い捨てる。
「……はい。お疲れ様でした」
静まり返ったオフィス。エナジードリンクの空き缶が散乱するデスクで、モニターの青白い光だけが大和の顔を照らしている。
ふと、ボールペンのインクが切れた。
大和は無表情のまま、替えのペンを探すために、デスクの一番下の引き出しをガラリと開けた。
無造作に放り込まれたクリアファイルの下から、あの黒い表紙のノートが顔を覗かせていた。
(……もう、捨てるか)
なんの感情も湧かないまま、大和はそのノートをつまみ上げた。そのまま足元のゴミ箱へ放り投げようとした、その時だった。
パラリ、と。
ノートのページの間から、一枚の小さな白いカードが床に落ちた。
「……なんだ、これ」
大和は怪訝に思いながら、床に落ちたカードを拾い上げた。
それは、ポラリスのロゴが小さく印字された、厚手のお店用コースターだった。その裏側に、見覚えのある丸くて丁寧な字で、短いメッセージが書かれていた。
『結城さんの紡ぐ言葉が、私は一番好きです。
いつか絶対に、たくさんの人の心を動かすと信じています。
あなたの言葉に救われた、最初のファンより。 七瀬雫』
「っ……」
その文字を見た瞬間、大和の呼吸が止まった。
いつの間に挟んでくれたのだろう。あの日、彼女にノートを預けて初めて読んでもらった時だろうか。
モニターには、上司から送られてきた『センスがない』『誰の心にも刺さらない』という赤い修正指示の文字が羅列されている。
今まで大和は、その冷たい評価こそが「現実」であり、社会における自分の価値のすべてだと思い込んでいた。
けれど、手の中にある小さなコースターには、確かに大和の生み出した言葉を愛し、救われたと言ってくれる人の温かい体温があった。
(俺は……何をやってるんだ)
心臓が、激しく警鐘を鳴らし始めた。
あの店が、今日でなくなってしまう。
ただ一人、自分の言葉を認めてくれた人が、大切な場所を奪われて今夜、一人で泣いているかもしれないのに。俺はこんなところで、死んだ魚のような目をして、誰の心も動かさないゴミみたいな書類を作り続けているのか?
『言葉だけで世界は変えられない』
あの日、絶望の朝にそう結論づけた。
確かに、言葉で立ち退きのブルドーザーは止められない。
けれど、言葉で『人』の心を動かすことはできる。そして、動いた心が、新しい現実を作っていくんじゃないのか。
大和はゆっくりと立ち上がり、デスクの上のモニターを睨みつけた。
時計の針は、午後十一時半を回ろうとしていた。




