第24話 魔法が解ける足音(3)
ボーン、ボーン……。
静まり返った店内に、午前四時を知らせる古い柱時計の重い音が響き渡った。
それは、路地裏の喫茶店が魔法の時間を終え、再び冷たい「現実」へと扉を閉ざす合図だった。
「……そろそろ、閉店の時間ですね」
雫は寂しそうな色を微かに瞳に滲ませながら、カウンターの上の布巾を畳んだ。
「ごめんなさい、結城さん。久しぶりに来てくださったのに、こんな暗い話ばかりしてしまって。お仕事で疲れているのに」
「……いや、謝らないでください。俺の方こそ、何も気の利いたことが言えなくて」
大和はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
胸のポケットに入れた黒いノートが、やけに重く感じられる。
『夜の底で飲むコーヒーは、明日の自分への小さな前借りだ』
『雨の日の路地裏には、大人だけが知っている避難所がある』
自分が得意げに書き連ねたあの言葉たちが、今はひどく空々しく、無価値なものに思えた。言葉で彼女の悲しみを拭えるわけでも、立ち退きを迫る巨大な都市開発のブルドーザーを止められるわけでもない。
ブーッ、ブーッ。
不意に、大和のスーツのポケットでスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、上司からのチャット通知だった。
『結城、さっき送ったデータ確認したけど、やっぱりあのキャッチコピー弱いから全部書き直して。朝の会議までに三案出しといて』
午前四時。常軌を逸した時間の指示。
人を使い捨ての歯車としか思っていない会社の理不尽さと、古い喫茶店を容赦なく取り壊す再開発の暴力。形は違えど、それは大和と雫を押しつぶそうとしている「大人の社会」という同じバケモノだった。
そのバケモノに立ち向かう力なんて、自分にはない。
「……結城さん?」
画面を見つめたまま立ち尽くす大和を心配して、雫が声をかける。
大和は慌ててスマホをポケットに押し込み、財布から千円札を取り出してカウンターに置いた。
「七瀬さん、ごちそうさまでした。……その、お店のこと、本当に残念です」
絞り出すようにそう言うのが精一杯だった。
気の利いたコピーも、彼女を救うアイデアも、今の空っぽな頭からは一つも浮かんでこない。
「ありがとうございます。結城さんも、どうかお体に気をつけて。あまり無理しないでくださいね」
雫のその優しい気遣いが、不甲斐ない大和の胸をさらに鋭く抉った。
自分がボロボロにすり減っているからといって、大切な場所を失おうとしている彼女を慰めることすらできないなんて。
逃げるように店のドアを開けると、外はまだ薄暗く、冷たい朝霧が立ち込めていた。
カラン、と。
背後で澄んだベルの音が鳴り、重い木製のドアが静かに閉ざされる。
振り返ると、『深夜喫茶 ポラリス』の看板のオレンジ色の明かりが、ふっと消えるところだった。
魔法が解けた。
もうあの温かい場所へ逃げ込むことはできないし、彼女の笑顔に甘えることもできない。
大和はネクタイを乱暴に締め直し、駅の方向ではなく、再びオフィスのそびえ立つビジネス街へと重い足取りで歩き出した。
胸のポケットに入れたノートの重みが、ただひたすらに邪魔だった。
「自分の言葉で誰かを救いたい」なんていう学生気分の夢は、この冷たい朝霧の中に捨てていくしかないのだ。
結局、自分は何も変えられない、ただのちっぽけな歯車でしかないのだから。
白み始めた空の下、大和の背中はどこまでも小さく、そして深い疲労と諦めに包まれていた。




