第23話 魔法が解ける足音(2)
金曜日の深夜にだけ訪れる魔法のような時間は、大和の日常を少しずつ、けれど確実に変えていった。
理不尽な仕事にすり減る毎日は相変わらずだったが、胸のポケットに入れた黒いノートの存在が、大和を絶望から繋ぎ止めていた。
「今度の金曜日に、この言葉を彼女に見せよう」。そう思うだけで、味気ないコンビニ弁当も、上司の心ない怒声も、やり過ごすことができた。ノートのページが黒いインクで埋まっていくのと比例するように、二人の距離も「店主と客」という垣根を越え、互いの孤独を温め合うような穏やかなものになっていた。
しかし、大人の社会において、モラトリアムの逃避行は永遠には許されない。
ノートが半分ほど埋まった頃、現実は容赦なく大和に牙を剥いた。
「結城、来月の大型キャンペーンの件だけどな。クライアントが方針を根底から変えたいって言い出した。悪いが、今動いてるチームの尻拭い、お前も手伝え」
火曜日の夕方、上司から言い渡されたのは、事実上の「デスマーチ」の宣告だった。
すでにスケジュールが破綻しているプロジェクトへの強制参加。そこから先は、地獄のような日々だった。連日の徹夜、終わりの見えない修正、クライアントからの理不尽な要求。
当然のように、金曜日の夜もオフィスに縛り付けられることになった。
(七瀬さん……今夜も、待っててくれてるかな)
午前二時のオフィス。無機質なパソコンの画面を見つめながら、大和は胸のポケットにある手帳越しに、路地裏の小さな喫茶店を思った。
連絡先すら交換していない。行けなくなったと伝える手段もない。
ただ、自分が無断で約束を破ってしまったという罪悪感と、あの琥珀色のクリームソーダが飲めない焦燥感だけが、泥のように溜まっていく。
結局、大和が『ポラリス』の重い木製ドアを開けることができたのは、それから三週間が経った、ある水曜日の深夜三時だった。
カラン、カラン。
「……いらっしゃいませ」
久しぶりに聞くベルの音と、雫の透き通るような声。
疲れ果ててボロボロになったスーツ姿の大和を見て、雫は少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの柔らかい微笑みを浮かべた。
「こんばんは、結城さん。……お仕事、大変だったんですね」
「すみません、ずっと来られなくて。今日はどうしても一杯飲みたくて、会社を抜け出してきちゃいました」
いつもの一番奥のカウンター席に崩れ落ちるように座ると、雫は何も聞かずに、温かいおしぼりと一杯のブレンドコーヒーを出してくれた。
立ち上る湯気と、深い焙煎の香り。一口飲むと、張り詰めていた全身の糸が切れたように、深い安堵のため息がこぼれた。
「……やっぱり、ここのコーヒーが一番美味しいです」
「ふふ、ありがとうございます。結城さんの顔が見られて、私も安心しました」
雫はカウンター越しにグラスを磨きながら、穏やかに目を細めた。
しかし、その日の大和は、ある違和感に気がついた。
いつもならピカピカに磨き上げられているはずの棚のグラスが少し減っている。それに、店内のどこか空気が、いつもより少しだけ寂しげに感じられた。
ふと、レジの横の壁に、一枚の白い紙が貼られているのが目に入った。
『閉店のお知らせ』
その黒いゴシック体の文字を見た瞬間、大和の心臓がドクンと冷たく跳ねた。
「七瀬さん……これ」
大和が震える指でその紙を指差すと、雫はグラスを磨く手を止め、小さく息を吐いた。
「……今月の末で、このお店を閉めることになったんです」
「どうして!? 経営が厳しいなら、俺、もっと通いますし……っ」
「違うんです。この古い雑居ビルの一帯が、再開発で取り壊されることになって。大家さんから、立ち退きをにお願いされてしまったんです」
雫の言葉に、大和は言葉を失った。
再開発。都市計画。
それは、大和が身を置いているような「大人の社会」の、最も抗えない巨大な力の象徴だった。個人の思い出や、路地裏の小さな魔法など、ブルドーザーで一瞬にしてなぎ倒してしまう暴力的な現実。
「おじいちゃんから継いだこの場所、守りたかったんですけど……私一人じゃ、どうすることもできなくて」
雫は申し訳なさそうに、けれど諦めを含んだような儚い笑顔を浮かべた。
その顔を見た瞬間、大和の胸に、かつてないほどの無力感と絶望が押し寄せた。
(俺は……なんて無力なんだ)
ノートにいくら綺麗なコピーを書いたところで、再開発のブルドーザーは止められない。
激務に追われて自分の生活すらまともにコントロールできていない今の自分には、彼女の悲しみを救う力も、新しい店舗を用意してあげるような資金もない。
「ごめんなさい、結城さん。せっかく、このお店のための素敵な言葉をたくさん書いてくれていたのに」
「……」
大和は胸のポケットにあるノートに触れ、奥歯を強く噛み締めた。
現実は甘くない。言葉だけで世界は変えられない。
社会の理不尽さを前に、自分が書いていた言葉が、ただの自己満足のポエムのように思えて、たまらなく惨めだった。
時計の針が、朝の四時を回ろうとしている。
魔法が解ける足音が、もうそこまで迫っていた。




