第21話 深夜0時の逃避行(3)
あの日、冷たい雨の中で見つけた琥珀色のクリームソーダの味は、大和のすり減った心に確かな熱を残していった。
それからというもの、大和は毎週金曜日の夜になると、わざと終電を「逃す」ようになった。
オフィスの時計が二十三時を回っても急ぐことはせず、ダラダラと無意味なメール整理をして時間を潰す。そして、日付が変わる頃に会社を出て、あの路地裏へと足を向けるのだ。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ。……こんばんは、結城さん。今夜も冷えますね」
「こんばんは、七瀬さん。……今日も、いつもの席いいですか」
重い木製のドアを開けると、決まってレコードのジャズと、コーヒーの良い香りが大和を出迎えてくれる。
カウンターの一番奥。そこが、この一ヶ月ですっかり大和の「指定席」になっていた。
最初の数回はただ黙ってコーヒーを飲み、本を読んだりスマホを眺めたりするだけだった。しかし、何度か通ううちに、カウンター越しにグラスを磨く雫と、少しずつ言葉を交わすようになっていた。
「今日も、遅くまでお仕事だったんですか?」
大和の前に淹れたてのブレンドコーヒーを置きながら、雫が静かな声で尋ねる。
「ええ。今日は、ポスターのキャッチコピーのフォントサイズを、上司の指示でミリ単位で調整してました。……大きくしろって言われて大きくしたら、やっぱり最初の小さい方がいいって怒鳴られて。三時間の残業がパーですよ」
自嘲気味に笑いながら砂糖を一つ落とすと、雫は「それは……本当にお疲れ様です」と困ったように眉を下げた。
会社の同期や友人にこんな愚痴を言えば、「お前も要領が悪いんだよ」とか「俺の部署の方がもっとキツい」とマウントを取られて終わるだけだ。けれど、雫は決して大和を否定せず、ただ静かに相槌を打ってくれる。
それが心地よくて、大和はつい、心の奥底に沈めていた「本当の気持ち」までポロリとこぼしてしまった。
「……俺、本当はコピーライターになりたかったんです」
コーヒーカップを見つめながら、大和はぽつりと呟いた。
「自分の言葉で、誰かの背中を押したり、心を動かしたりするような仕事がしたくて。ノートに何百個も企画やコピーを書いて、面接でそれを熱弁して、今の会社に入ったのに……現実は、誰かの思いつきに振り回されるだけの、ただの都合のいい歯車です」
言ってしまってから、大和はハッとして口をつぐんだ。
深夜のテンションとはいえ、初対面に近い喫茶店の店主に、自分の青臭い夢の挫折を語るなんて痛々しすぎる。
「すみません、変な愚痴を聞かせて。忘れてください」
誤魔化すようにコーヒーをあおろうとした大和に、雫は首を横に振った。
「結城さんは、優しいですね」
「え……?」
「自分の書いた言葉で、見知らぬ誰かの背中を押してあげたいなんて。……自分が本当に傷ついたり、誰かの言葉に救われたりした経験がある人にしか、持てない夢だと思います」
雫はそう言うと、ふわりと温かい微笑みを浮かべた。
「今は歯車のように感じているかもしれませんが、結城さんがミリ単位でこだわって残業したそのポスターを見て、心が動く人が絶対にいるはずです。……少なくとも私は、誰かのためにそんなに一生懸命になれる結城さんが書く言葉を、いつか見てみたいです」
その言葉は、冷え切っていた大和の胸の奥に、トクリと静かな波紋を広げた。
「……ありがとうございます」
大和は目頭が熱くなるのを誤魔化すように、うつむいてコーヒーを飲んだ。
深い焙煎の苦味の中に、ほんの少しだけ甘さが広がる。
社会人になってから、誰も自分の内面なんて見てくれなかった。ただ「使えるか、使えないか」という結果だけで評価される毎日。
けれど、この路地裏の小さな喫茶店にいる間だけは、自分は「ただの結城大和」という一人の人間に戻ることができた。
時計の針は、午前二時を指そうとしている。
外の世界では、理不尽な現実が口を開けて待っている。それでも、金曜日の深夜にこの『ポラリス』で過ごす時間は、大和にとって何よりもかけがえのない、大人だけの秘密の逃避行になっていた。




