第20話 深夜0時の逃避行(2)
手渡されたタオルで髪とスーツの雫を拭い終えると、大和はふうっと深い息を吐き出した。
静かな店内には、古い柱時計が時を刻むカチコチという音と、レコードの針が擦れる微かなノイズだけが心地よく響いている。
「メニュー、こちらになります。温かいお飲み物もすぐにご用意できますよ」
カウンター越しに、店主の女性――雫が、皮張りの小さなメニュー表をそっと差し出した。
大和は目元を揉みほぐしながらメニューを開く。
ブレンドコーヒー、カフェオレ、ダージリンティー。どれも丁寧に淹れてくれそうな定番のメニューが並んでいたが、ひどく疲労した大和の脳は、自分が今何を飲みたいのかすら判断できなくなっていた。
ブラックコーヒーを飲んで、さらに胃を荒らすべきか。それとも甘いココアでも飲んで誤魔化すか。
文字の羅列をぼんやりと見つめたままフリーズしている大和を見て、雫は小さくクスリと笑った。
「もしかして、選ぶのにも疲れてしまっていますか?」
「えっ……あ、すいません。なんか、頭が回ってなくて」
「ふふ、構いませんよ。金曜日の深夜ですから」
雫はメニュー表をそっと引き取ると、少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「もしよろしければ、メニューにはない特別なものをお作りしましょうか? 雨に濡れて冷えた体と、一週間の疲れをほどくような……少しだけ甘いものを」
その優しい提案に、大和は素直に「お願いします」と頷いた。
自分が他人に『お任せ』で何かを頼むなんて、いつ以来だろう。仕事では常に決断と効率を求められ、少しでも判断を間違えれば上司の怒声が飛んでくる。誰かに身を委ねるという行為自体が、今の彼にとってはひどく贅沢なことに思えた。
カラン、と氷を砕く澄んだ音が響く。
雫は手際よくグラスを取り出すと、底に琥珀色のとろりとしたシロップを注ぎ、静かに炭酸水を注ぎ入れた。シュワシュワと弾ける細かな泡が、グラスの中で美しく踊る。
最後に、丸くすくったバニラアイスを氷の上にそっと乗せ、カウンター越しに大和の前に差し出した。
「お待たせしました。『ポラリス』の裏メニューです」
コースターの上に置かれたそれは、大和が想像していたものとは少し違っていた。
「……クリームソーダ?」
大和が知っているクリームソーダといえば、ファミレスにあるような毒々しい緑色をしたメロン味のものだ。しかし、目の前にあるグラスは、まるで上質なウイスキーのように透き通った『琥珀色』に輝いていた。
「自家製のジンジャーシロップに、少しだけアールグレイの茶葉を煮出して作っているんです。夜に飲むクリームソーダは、大人の特権ですよ」
雫の言葉に促されるように、大和はグラスに添えられた長いスプーンで底のシロップを軽くかき混ぜ、ストローに口をつけた。
「……あ」
一口飲んだ瞬間、大和は思わず小さく声を漏らした。
冷たい炭酸の刺激と一緒に、生姜のピリッとした辛みとスパイスの香りが広がり、冷え切っていた胃の奥がじんわりと温かくなる。そして、上に乗ったバニラアイスが少しずつ溶け出すことで、アールグレイの深いコクとまろやかな甘みが、疲弊しきった脳の奥まで優しく染み渡っていった。
「……美味い」
飾らない、本音の言葉が口からこぼれ落ちていた。
そのたった一言を発しただけで、大和の目頭が急に熱くなった。
ここ数ヶ月、自分が何を食べていたのか、どんな味だったのか、大和は全く思い出せなかった。
パソコンの画面から目を離さずに飲み込むゼリー飲料。味の濃いコンビニ弁当。それらはすべて、ただ命を繋ぐための『燃料』でしかなく、食事をして美味しいと感じたことなんて、一度もなかったのだ。
「美味しい、です。すごく……」
大和がもう一度、今度は少し震える声でそう言うと、雫はホッとしたように柔らかく微笑んだ。
「よかったです。ひどくお疲れのようでしたから」
「……」
「何も聞かないでおきますから、今日はただ、そのグラスが空になるまでゆっくりしていってくださいね」
雫のその適度な距離感が、大和にとってはたまらなく心地よかった。
理不尽な上司の怒声も、終わりの見えない企画書の修正も、すべてはあの重い木製のドアの向こう側の世界での出来事。
琥珀色の液体をストローでゆっくりと吸い上げるたびに、大和の中でガチガチに凍りついていた感情の破片が、少しずつ、少しずつ溶け出していく。
深夜の路地裏。雨音だけが静かに響く喫茶店。
この場所はきっと、現実という名の荒波に溺れそうになっている大人たちが、一時的に避難するための小さな小島なのだ。
グラスの中でカランと氷が鳴る音を聞きながら、大和は久しぶりに、心からの深い安堵のため息を吐き出した。




