第19話 深夜0時の逃避行(1)
金曜日の午後十一時四十五分。
オフィスの無機質な蛍光灯の下で、ノートパソコンの電源を落とした瞬間、結城大和の耳の奥で微かな耳鳴りがした。
「結城、その企画書の修正、月曜の朝イチでクライアントに出すから。よろしく頼むわ」
数時間前、すでに退社準備をしていた大和のデスクに、分厚い資料を投げ落としていった上司の背中を思い出す。
「自分のアイデアで、誰かの心を動かしたい」。そんな希望に胸を膨らませて広告代理店に入社してから二年。今の彼に与えられている仕事は、上司が思いつきで言ったような指示の尻拭いと、文字のフォントやレイアウトをミリ単位で調整するだけの、誰の記憶にも残らないような作業ばかりだった。
形のない「企画」や「デザイン」という実体のないものに振り回され、いくら時間を投資しても、手元には何も残らない。ただ、心と体がすり減っていく感覚だけが確かな現実として横たわっている。
エレベーターで一階に降り、エントランスの自動ドアを抜けると、最悪なことに冷たい雨が降り始めていた。
「……まじかよ」
傘など持っていない。スマホで時刻を確認すると、無情にも「23:55」という数字が光っていた。
走ればギリギリ最終電車に間に合うかもしれない。けれど、もう足を動かす気力すら残っていなかった。
大和はネクタイを少しだけ緩め、スーツの肩を濡らしながら、深夜の繁華街へと歩き出した。
金曜の夜。終電を逃した酔っ払いや、客引きの声が響く大通り。ネオンサインの眩しい光が、雨に濡れたアスファルトに乱反射して毒々しく光っている。
誰もが、一週間の労働を終えて「自分の時間」を謳歌しているように見えた。
(俺は、何のために生きてるんだろうな)
ふと、そんな青臭くて痛々しい問いが頭をよぎる。
実体のないデータと格闘し、怒鳴られ、終電を逃して雨に濡れる。こんなことをするために、あの息苦しい就職活動を乗り越えたわけじゃないのに。
ひんやりとした雨水がワイシャツに染み込み、体温を奪っていく。
騒がしい大通りを歩くことに限界を感じた大和は、無意識のうちに、人通りの少ない路地裏へと足を踏み入れていた。
表通りの喧騒が嘘のように静まり返った、薄暗い裏路地。
古い雑居ビルや、シャッターの降りた店舗が並ぶその道を、ただうつむいて歩き続けていると、ふわりと、どこからか甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
「……?」
足を止め、顔を上げる。
暗い路地裏の片隅に、ぽつりと一つだけ、温かいオレンジ色の光をこぼしている場所があった。
古いレンガ調の壁に、深い緑色の木製のドア。
そして、その横に控えめに掲げられたアンティーク調の看板には、こう書かれていた。
『深夜喫茶 ポラリス』
[営業時間:22:00 ~ 04:00]
(深夜喫茶……こんな路地裏に?)
カフェでも、バーでもなく「喫茶店」。
しかも、夜の十時から朝方までという、完全に昼間の社会から切り離された営業時間。
普段の大和なら、こんな怪しげな店に一人で入るようなことは絶対にしない。けれど、今は濡れたスーツの寒さと、限界を迎えた心の疲労が、正常な判断力を奪っていた。
ただ、座りたかった。
この冷たい雨と、理不尽な現実から、ほんの少しの間だけでも逃げ出せる場所が欲しかった。
大和は吸い寄せられるようにその扉に近づき、冷たい真鍮のドアノブに手をかけた。
カラン、カラン。
扉を開けると、澄んだベルの音が静かな店内に響き渡った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、落ち着いた、水のように透き通る声がした。
店内は、外の冷たい雨が嘘のように暖かかった。
レコードプレーヤーから微かに流れるジャズの調べと、深く焙煎されたコーヒーの香り。使い込まれた艶やかなマホガニーのカウンター席が数席と、奥に小さなテーブル席が二つあるだけの、こぢんまりとした空間。
そしてカウンターの中には、白いブラウスに丈の長い黒のエプロンを着けた、一人の女性が立っていた。
年齢は、大和と同じくらいだろうか。色素の薄い柔らかな髪を後ろで一つにまとめ、穏やかな眼差しでこちらを見つめている。
「……あ、すいません。濡れてて」
大和は自分のスーツからポタポタと落ちる雨水に気づき、慌てて入り口のマットで足を拭った。
「外、降ってきたんですね。どうぞ、奥の席へ。今、タオルをお持ちします」
彼女は驚く様子もなく、棚から清潔な白いタオルを一枚取り出すと、静かな足取りで大和の元へ歩み寄ってきた。
受け取ったタオルはふんわりと温かく、ほのかに石鹸の匂いがした。
「ありがとうございます……。あの、ここ、いいですか」
「はい。こんな雨の夜ですから、どうぞゆっくりしていってください」
彼女が柔らかく微笑む。
その笑顔には、営業スマイル特有の押し付けがましさが一切なく、ただそこにあるのが当たり前のような、不思議な包容力があった。
大和は一番奥のカウンター席に腰を下ろし、濡れた髪をタオルで拭いながら、深々と息を吐き出した。
外の喧騒からも、会社の無機質な蛍光灯からも遠く離れた、深夜の路地裏。
それは、すべてをすり減らした青年が、偶然見つけた『大人だけの秘密の逃避行』の始まりだった。




