第18話 夜明けのキャンバス(3)
F50号という大きなキャンバス。
そこに描かれていたのは、息を呑むような壮大な風景でもなければ、高尚で難解な抽象画でもなかった。
薄暗い空間を照らす、青白い蛍光灯の頼りない光。
壁沿いに並んだ、古びた縦型洗濯機と大型のドラム式洗濯機。
そして、少しだけ距離を空けてパイプ椅子に座る、二人の男女の背中。二人の間には、温かいブラックコーヒーとホット・カフェオレの缶が、小さな湯気を立てて並んでいる。
ネームプレートに添えられた作品のタイトルは、『午前二時の特等席』。
「……っ」
悠真は息を呑み、キャンバスに釘付けになった。
荒々しくも繊細な油絵の具のタッチで描かれたその空間は、紛れもなくあの色褪せたコインランドリーだった。
外の冷たい夜風の気配と、乾燥機の生温かい空気。そして何より、あの場所で悠真が感じていた『何者でもない自分でいられる安らぎ』が、驚くほど生々しい温度を持ってキャンバスに表現されていた。
「瀬戸さん」
不意に、背後から静かな声がした。
振り返ると、そこには紬が立っていた。絵の具だらけのオーバーオールではなく、落ち着いた色のニットとロングスカートに身を包んでいる。昼間の光の下で見る彼女は、深夜のコインランドリーで会っていた時よりも、ずっと大人びて、眩しく見えた。
「鳴海さん……」
「来てくれたんですね。瀬戸さんは絶対に来ないだろうなって、半分諦めてたんですけど」
紬は少しだけ照れくさそうに笑い、自分の描いたキャンバスを見上げた。
「どうして、これを描いたの……? もっと、美大生らしいすごい風景とか、そういうのを描くんだと思ってた」
悠真の問いかけに、紬は小さく首を振った。
「真っ白なキャンバスの前に立った時、誰かに評価されるための『すごい絵』を描こうとして、余計に筆が動かなくなってしまったんです。だから、周りの目は全部無視して、私が今、一番大切にしたい光景を描こうって決めました」
「一番、大切にしたい光景……」
「はい。……私に、キャンバスに向かう勇気をくれた場所と、人の絵です」
紬が真っ直ぐに悠真を見つめる。
その大きな瞳に映る自分は、相変わらずスウェット姿で、何者にもなれていないただの大学生のままだった。
けれど、空っぽだと思っていた自分の存在が、モラトリアムの焦りの中でただ消費していただけの時間が、彼女の真っ白なキャンバスにこんなにも温かい色を落としていたのだ。
『瀬戸さんは、空っぽなんかじゃないですよ』
あの日、彼女が言ってくれた言葉の本当の意味が、今になって悠真の胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
「……俺さ」
悠真は、ぎゅっと拳を握りしめた。
今までずっと逃げてきた自分の弱さと、もう一度だけ真っ直ぐに向き合うために。
「新しい洗濯機、めちゃくちゃ快適でさ。ボタン一つで乾燥までやってくれるし、夜中に寒い思いして外に出る必要もなくなった」
「……はい」
「でも、全然嬉しくなかった。深夜二時になるたびに、鳴海さんに会いたくて、馬鹿みたいにコインランドリーに行ったりして」
紬の目が、驚きに丸くなる。
「洗濯機が直ったら、俺にはもう君に会いに行く口実がない。俺みたいな空っぽな人間が、ちゃんと夢を持ってる君の隣にいる資格なんてないって、そうやって勝手に言い訳して、逃げてたんだ」
「瀬戸さん……」
「でも、この絵を見てわかった。俺の時間は、無駄じゃなかったんだなって。君がそう言ってくれてる気がした」
悠真は一歩、紬の方へと足を踏み出した。
真夜中のコインランドリーという、魔法の空間はもうない。
でも、だからこそ、今は自分の言葉で、ちゃんと伝えなければいけない。
「洗濯機はもう直ったから、コインランドリーには行かない。……でも、もしよかったら、今度は明るい昼間に、俺とコーヒー飲んでくれませんか」
それは、不器用な彼が初めて「言い訳」を捨てて手に入れた、等身大の勇気だった。
紬は一瞬だけ瞬きをした後、両手で顔を覆い、ふふっ、と肩を揺らして笑い出した。
やがて顔を上げた彼女の目元には、ほんの少しだけ涙が滲んでいた。
「……はい。喜んで」
ギャラリーの外に出ると、十二月の冷たい風が頬を撫でた。
けれど、もう深夜の凍えるような寒さはない。空には雲ひとつない青空が広がり、冬の入り口の明るい太陽が、二人の足元を力強く照らしている。
「瀬戸さん、駅前のカフェ、知ってますか? ずっと行ってみたかったんですけど、一人じゃ入りづらくて」
「ああ、あのガラス張りのとこ? いいよ、行こう」
並んで歩き出す二人の間には、もう夜の魔法も、壊れた洗濯機という口実も必要ない。
何者かにならなければいけないという焦りは、まだ胸の隅にある。
けれど、空っぽなら空っぽのまま、少しずつ自分たちの色を見つけていけばいい。この明るい太陽の下を、二人で歩いていく時間の中で。
昼間の喧騒の中、肩を並べて歩く僕たちの距離は、あの午前二時の特等席にいた時よりも、ずっと確かな温もりで繋がっていた。




