第17話 夜明けのキャンバス(2)
あれからさらに数週間が過ぎ、季節は本格的な冬を迎えようとしていた。
冷たい風が吹き抜ける、大学のメインストリート。午後の講義に向かうため、悠真はポケットに両手を突っ込みながら、うつむき加減で歩いていた。
すれ違う学生たちは皆、マフラーを巻いたり厚手のコートを着込んだりして、冬の装いに変わっている。
悠真の心だけが、あの日紬と別れた十一月の深夜のコインランドリーから、一歩も進んでいないままだった。
ふと、正門の横にある大きな学生用掲示板の前で足が止まった。
サークルの勧誘やアルバイト募集のチラシが乱雑に貼られている中、一枚の真新しいポスターが、なぜか強く悠真の視線を惹きつけたのだ。
『五美術大学合同 冬の学生作品展』
青と白を基調とした、洗練されたデザインのポスター。
開催期間は、今日から三日間。場所は、ここから電車で二駅先の市民ギャラリーと記されている。
――今度の冬に、美大生が合同でやる大きな展示会があって、私も出展する予定なんです。
脳裏に、あの深夜のコインランドリーで聞いた彼女の静かな声が蘇った。
悠真の心臓が、早鐘を打ち始める。
(もしかして、これのことか……?)
合同展示会なんて他にもあるかもしれないし、彼女が本当に出展できている確証もない。キャンバスに向かうのが怖いと言っていた彼女が、無事に作品を完成させられたのかどうかもわからない。
けれど、悠真の足はすでに掲示板の前に釘付けになっていた。
(行っても、どうせ俺は場違いだ。空っぽの俺が、彼女の完成した夢の前に立つ資格なんてない)
逃げ腰の自分が、頭の中で必死にブレーキをかけようとする。
しかし、悠真は強く頭を振った。
あの日、背中を向けて遠ざかっていく彼女を引き留められなかった後悔が、今も胸をかきむしるように痛んでいる。
自分は空っぽだと言い訳をして、安全な場所から動こうとしなかった自分。
でも、彼女は逃げなかった。怖くても、キャンバスに向き合うと決めて、あの日コインランドリーを後にしたのだ。
「……行くしかないだろ」
悠真はポスターに書かれたギャラリーの場所をスマホで検索すると、午後の講義をすっぽかして、最寄り駅へと駆け出した。
電車に揺られること十数分。
辿り着いた市民ギャラリーは、ガラス張りで天井が高く、日の光がたっぷりと降り注ぐ明るい空間だった。
入り口のドアを押し開けると、静かで、それでいて熱気を帯びた空気が悠真を包み込んだ。
フロアには無数のキャンバスや立体作品が並び、美大生らしき個性的な服装の若者や、美術関係者とおぼしき大人たちが静かに鑑賞して回っている。
普段、スウェット姿で深夜のコンビニやコインランドリーにしか行かない悠真にとって、そこはあまりにも眩しく、圧倒的に場違いな空間だった。
入り口のパンフレット置き場に立ち尽くし、逃げ出したい衝動に駆られる。
しかし、悠真は深呼吸を一つして、パンフレットの『出展者一覧』のページを開いた。
あ行、か行、さ行……な行。
震える指先で、活字の羅列をなぞっていく。
「……あった」
『鳴海 紬(油絵・F50号)』
その三文字を見つけた瞬間、悠真の視界がふわりと熱くなった。
彼女は、逃げなかったのだ。あの真っ白で怖いキャンバスに筆を下ろし、見事に絵を完成させて、今この場所に飾られている。
パンフレットに記されたエリアマップを頼りに、悠真は広大なギャラリーの奥へと足を踏み入れた。
色鮮やかな風景画、抽象的で難解な作品、エネルギーに満ち溢れた人物画。
才能と情熱が爆発したような作品たちの間を抜けながら、悠真はひたすらに彼女の名前を探した。
息苦しいほどに明るい、昼間の世界。
深夜のコインランドリーという、色褪せたモラトリアムの特等席から飛び出した彼女は、一体どんな素晴らしい世界を描き上げたのだろうか。
「……鳴海、紬」
フロアの一番奥、少しだけ照明の落とされた静かなコーナー。
そこに飾られた一枚の絵と、その横にある小さなネームプレートを見つけ、悠真の足はピタリと止まった。
展示室の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
悠真は信じられないものを見るように、大きく目を見開き、そのキャンバスの前に立ち尽くした。




